今、『ミッドサマー』が話題ですね。通常版に続いてディレクターズカット版も全国上映されるとは!!
最近ホラーが来てるんでしょうか? ジョーダン・ピールの『ゲット・アウト』『アス』と言い、このところホラーが新鮮。
でも『ミッドサマー』なんかはこれまでの感覚ではかなり人を選ぶタイプの作品な気がするんですがね・・・今回のスマッシュヒット、面白く眺めています。
ホラーっていろんな可能性を秘めてるんですね。
さて、『ミッドサマー』の舞台がスウェーデンだったこと、そして監督のアリ・アスターがイングマール・ベルイマンを目標とする映画作家として名前を挙げていたを見て、お正月にユジク阿佐ヶ谷で観て衝撃的に好みだったこの作品を思い出して、そろそろ記事にしてみることにしました。
かなり難解で寝かせていたんですが、寝かせたおかげ?で切り口が見えてきました。
あらすじ(ネタバレ)
1963年の作品。
2人の姉妹エステル(イングリッド・チューリン)とアンナ(グンネル・リンドブロム)、そしてアンナの幼い息子ヨハン(ヨルゲン・リンドストロム)が本作の主な登場人物です。
列車で異国を旅する3人。しかし旅の途中列車内でエルテルが病に倒れ、3人は急遽見知らぬ街のホテルに宿泊します。
そこは、当時の東欧諸国のどこかのような雰囲気を持った場所なのですが、言葉は全く理解不能で、どこの国なのか全くわかりません。(それもそのはずで、現地の人々が話している言葉は創作だそうです。)
2人の姉妹の関係も、どこか奇妙。
姉妹なのに、2人の間には険悪な雰囲気が漂っている・・・第一、どちらも美しいけれど、2人は対照的な雰囲気の女性です。
姉のエステルは翻訳家で知的な女性。ただし彼女曰く多幸症だといい、それに加えて死病を患っているようです。
一方、妹のアンナは、夫も子供もいるにもかかわらず胸元が開いたセクシーな服装で、短い滞在の間にも街に男を漁りに出かける。
まだ幼いヨハンは、そんな2人の対立をおぼろげに感じ取りながらも、表面は屈託なく、ホテルで芸を披露する小人の一座や給仕の老人との交流を楽しんでいます。
やがてエステルを置いてアンナとヨハンだけが先に出発することになり、列車の中でエステルがくれた「この国の言葉」のメモを読み始めたヨハン。
「精神・・・」
ヨハンが読み始めたとたんに窓を開け、彼の声を聴こうとしない母親のアンナ。ヨハンは咎めるようにじっと母親の顔を見ますが、アンナは構わず、雨の降る車外に顔を出したまま。
そこで暗転となります。
『鏡の中にあるごとく』『冬の光』と並んで「神の沈黙の三部作」に位置付けられる作品。三作まとめてDVDで観直しました。
さらにこの本↓も購入。ただ、ベルイマンの思想や作品を横断的に網羅されていて役に立ったものの、少なくとも『沈黙』に関してはあまりピンとくる解説はありませんでした。
もっとも、研究者にとっても難解なんだと思ったら、逆に自由に自分の解釈が書けた気がします。ほの暗い禁忌に包まれた好きなタイプの作品だけに、私にとっては三部作の中で一番とっつきやすい作品だったかもしれません。
少年の視点で見ると視界がひらける
これまでベルイマンの作品はいくつか観ましたが、その中でもダントツにエロチックな作品です。「ポルノグラフィ以外で初めて女性の自慰を描いた作品」でもあるらしく、ほかにもかなり派手な濡れ場が何か所か。公開当時も「そういう意味で」客層が広がったようです。
ただ、エロチックなシーンが加わったところで、ストーリーがすっと入ってくる類いの作品ではないのは他のベルイマン作品と同じ。独特の映画文法、独特の視点があって、ベルイマンがどこから、何を見ているのか、なかなか探しあぐねます。
2人の姉妹と少年、3人の視点から均等に描かれているように見える本作。観客としてはまずは大人である姉妹のほうに視点を合わせて眺めるのが普通じゃないでしょうか?
しかし、2人の姉妹に関しては両者の激しい対立という要素以外、情報が遮断されています。
おそらく2人の視点で何かを見ようとしても難しい・・・といって他の大人たちはナゾの言葉を話す人々。全く理解のしようがありません。
ところが、視点を少年ヨハンに重ねると、意外なくらいに視界が開けて、とてもくっきりとこの作品の世界が見えてきます。
上の本にはそうは書かれていないので私の個人的な解釈ということになりますが、この作品は「少年が人生の最も初めの時期に知る悲しき人間世界」を抽象化したものだ、という気がしてなりません。
単にそれだけではなく多重的な意味を持った作品ではあるのですが、そこを中心に眺めると、他の要素も形を現わしてくる気がします。
姉妹はエロスとタナトス、肉体と精神
この作品の世界の最も大きな特徴は、「言葉が通じない」ということです。
アンナが街のレストランのウエイターとの行きずりのセックスの後に言う、
「あなたと言葉が通じなくて良かった」
という一言が端的にあらわしているように、アンナが男に求めているのはセックス、それ以上の心の交流や理解は求めていません。彼女は言葉を信用せず、肉体の交歓以外は何も信じない。その反面、肉体の交歓によっては心が満たされないことも知っている・・・なんとも救いがたい女性です。
一方、翻訳家である姉エステルは、言葉=理解を求めています。彼女も肉体を持つ身、時には肉欲が疼くこともあるようですが、彼女には精神の共鳴のないセックスは考えられないのでしょう。
セックス依存症にも見えるアンナの発想では、父親と姉もそんな関係だったように見えています。ただ、それが真実かどうかは自明。何故ならば本作の中でアンナは「肉体」、エステルは「精神」を表象しているから。勿論エステルがそんなことをするはずがないのです。
ベルイマンが父親のことでアンナとエステルを対立させたのは、およそ姉妹というものが父親の愛情を試し合う関係性だからではないでしょうか?
仲睦まじく見える姉妹でも、どこかで張り合っているところがあることは否定できません。それは姉妹というものの宿命で、時には一番近い関係のライバルだからこそいがみ合うこともあります。
極端にデフォルメされてはいますが、エステルとアンナの対立は、普遍的な姉妹の姿でもあるのかもしれません。
ただ、姉妹の対立が中心にある物語だとすると、本作には余るパーツが多く出てきます。現実の世界を1本の糸で結ぼうとすると余りのパーツだらけになりますが、全てが作者の意図の下に作り出された物語の世界には余りのパーツは基本的にはないはずです。
また、エステルが死病を患っているらしいことも気になります。それは給仕の老人がヨハンに身内の死の悲しみを語る(何を言っているのか分かりませんが身振りで推定)こととも「死」というキーワードでゆるやかにつながっています。
エステルとアンナは、「精神」と「肉体」のメタファーであると同時に、「タナトス」と「エロス」でもあるということ?
そしてホテルの外の世界に漂う戦争の気配は何を意味しているのか・・・
そう考えた時に、これはヨハンの物語なのだ、という考えが浮かびました。
これは、少年と、幼い少年にとって最も鮮やかな経験である性と死と戦争との物語なのではないかと。
そこから眺めると、気持ちがいいほど本作の全ての要素がひとつながりの物語として生きてくるんですよね。
子供の世界は言葉が通じない世界
この作品の中で、ヨハンが広いホテルの中を銃(もちろんオモチャ)を持って探検し、言葉の通じない人々と交流していく様子を観た時、何故かとても懐かしい気持ちに襲われました。
私も同じような経験をしたことがあるような・・・と言っても、私は子供時代に外国に行ったことがないので、言葉が通じない世界を経験したことはないはずなんです。
でも、考えてみれば子供の頃、大人たちのかわす会話はところどころまだらにしか理解できなくて、まるで外国語を聞くように右から左に流れていただけだったなと。
この作品の言葉が通じない世界は、おそらく「子供の世界」のメタファーでもあるんじゃないでしょうか。
小人芸人たちのように、同じ目の高さで遊んでくれる大人とは言葉が通じなくても心で通じあえるし、脚立に上って修理をする男のように子供の世界に降りてきてくれない大人とはコミュニケーション不能。
ただしコニュニケーションできたとしても、理解できることと理解できないことがあります。
給仕の老人がくれたチョコレートの味は理解できても、彼が語る身内の死の悲しみは理解できない。多分ヨハンは、その悲しみを伯母の死を通じて人生で初めて知るのかもしれません。
母親のアンナも伯母のエステルも、彼は幼くて何も理解していないと思っています。
勿論男としても未分化。「どうせ何もできやしない子供」にすぎない息子に対してアンナはとても無防備で、全裸で一緒に昼寝したり・・・カメラはこの母子の関係をそこはかとなく淫靡なものとして見せていきます。
ヨハンがずっとオモチャの銃を持っていることには「子供らしさ」以上の意味があります。彼は子供ですが、男になりかけの子供。銃は言うまでもなく彼がちゃんと男性器を持っていることを暗示しています。
彼は母親を通じて、無意識に性に目覚めていくのでしょう。でも、他の男たちと同じように、いやそれ以上に、ヨハンは母親アンナと理解し合うことはできない。彼女は肉体のつながりでしかコミュニケーションをしない人間で、ヨハンは彼女と肉体関係だけは持てませんから。
一番身近で誰よりも愛しているのに、だからこそ彼は母親と理解し合えない・・・哀しいことです。
しかし面白いのは、女たちが何も教えないのにヨハンが外の世界で行われているらしい戦争に興味を持っていることです。
彼は母親の裸体を眺める時と同じうっとりした表情で戦車を眺めます。空想の中で戦闘機を撃ち落して遊んでいたりも・・・性に目覚め始めると同時に少年は戦争ごっこを始めて、その延長上に現実の戦争。でも、女たちは戦争には無関心。子供の中に戦争につながっていく芽が芽生えていることも気づきません。(その「芽」はヨハンがホテルの廊下でおしっこをするシーンにも暗示されています。)
伯母のエステルが考えるように、ヨハンが外国の言葉を学び、他国の文化を知ることができれば、彼の世界は広がって、戦争に対して別の考えを持てるかもしれないけれど、母親のアンナは彼が学ぶことを嫌います。
エステルがヨハンに渡した「この国の言葉のメモ」の中の最初の単語が「精神」だったことは、とても象徴的な意味を持っている気がします。
戦争とマチズモは直結しているだけに、男女の肉体関係に依存し、心を閉ざしていくアンナの教育は、息子ヨハンだけでなく世界の未来を暗くしているように思えます。
そういうのこの世の絶望的な様相を見つめる中で、本作は神の存在を問うているのではないでしょうか。
甘く残酷でノスタルジック
しかし、理屈はともかく、この作品の描く少年の世界、ノスタルジックで、未分化で無自覚な性の危うさが詰まった、甘く残酷な雰囲気、なんとも言えず好きなんですよね。
幼い少年の母親に対する恋に似た想い、その母親は子供を顧みず情事に溺れれている・・・という、昔のメランコリックな少女漫画みたいなジットリほの暗いモチーフがいい。
性や死や戦争という、私自身幼い頃とてつもなくビビッドで生々しく、怖れを感じた事柄が、ヨハンの中で何かを形作っていく兆し、あくまでも兆しですが、そういうものが見えてくるような終盤への展開も好きです。
夜半、地響きとともに戦車が街路にその禍々しい姿を現すワンシーン。そしておもむろにホテルの前で止まり、しばらくすると再び地響きを立てて去っていく・・・ミニマムな情報量の中で不穏な戦争の気配だけを際立たせたような見せ方、何か後々まで悪夢に見そうな印象深いものがありました。
通常の映画が小説に相当するとしたら、本作は詩。パーツはきわめて官能的なのに印象はストイックで、ギリギリまで削ぎ落としたシャープな映像。それだけに深い余韻が残ります。