『ポゼッション 4Kリマスター版』 ベルリン、狂気とエクスタシーとフェミニズム | シネマの万華鏡

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「変態」はまごうことなき誉め言葉である

ブロ友のタイレンジャーさんが私の好きなワード満載の魅惑的な記事を書かれていたのを見て、俄然吸い寄せられました。この映画、別のブロ友さんも素敵にご紹介下さっていたんですが、やはり「変態映画」の一言が決め手になりましたね(笑)

もちろん「変態」は誉め言葉です。とは言えこの言葉自体がマジョリティには永遠に否定され続ける宿命を内包している以上、あまり「変態」を連呼するのは自粛すべきだと思いますので、ここからは「HNT」と呼ぶことにしますね。

 

HNTがエロチシズムと直結していることは言うまでもないとして、個人的にはヴィスコンティ作品に代表されるデカダンスものもHNTムービーの一種だと思ってます。

澁澤龍彦の『映画論集成』によると「デカダンス」とは「「貯蔵された猟獣肉の腐った味」であり、「熟れすぎて腐る一歩手前の屍斑の美しさ」」らしいのですが、この腐る寸前の肉をじっとりと見つめる澁澤氏の視線自体がもうHNTの始まり。実際映画におけるデカダンスの表現には必ずと言っていいほど「背徳」が絡められていますしね。

それから吸血鬼もの。不気味なだけでなく倒錯的エロチシズムも満載なのが吸血鬼ものの顕著な特徴で、その意味ではこれも典型的なHNTムービーと言えます。

ホラーやオカルトは、人間を連結しちゃった『ムカデ人間』なんかは端的な例ですが、多かれ少なかれHNT要素を含んでいるんじゃないでしょうか。

 

ZELDA的あらすじ(ネタバレ)

監督のアンジェイ・ズラウスキーがポーランド人ということで、てっきりポーランドが舞台かと思いきや、舞台は一貫してベルリンでした。しかも、1981年の作品ですから、まだベルリンの壁があった頃。この映画は西ベルリンで撮影されています。

以下、本作の場合には特に人によって解釈が異なる部分がかなりあると思いますので、その意味で「ZELDA的あらすじ」としました。

 

主人公のマルク(サム・ニール)は諜報活動もしくは国家の謀略に関与しているらしい男。危ない仕事に手を染めている気配、家も留守がちだったようです。そのマクルが久しぶりに妻と息子が待つ家に帰ってみると、妻アンナ(イザベル・アジャーニ)の様子がおかしい。妻の友人マージの話でどうやらアンナはハインリッヒという男(ハインツ・ベネント)と浮気しているらしいことが分かり、ハインリッヒに問いただしてみるが、彼は最近アンナには会っていない様子。

急速に異常かつ狂暴な行動を取り始めたアンナと別居したマルクは、積極的に誘ってくるマージとなりゆきで関係しますが、やがて、顔はアンナに瓜二つでありながら、今のアンナとは違って穏やかでやさしい女性ヘレン(イザベル・アジャーニ)に出会い、彼女に惹かれていきます。

 

一方、アンナはベルリンのセバスチャン通りにある廃墟のアパートメントに通い、そこでおぞましいクリーチャーの世話をしていることが、マルクの雇った探偵の尾行によって判明します。

アパートにアンナを訪ねたマルクは、そこでアンナがそのクリーチャーに犯される姿を目撃。しかし、アンナは少し微笑みすらして、マルクに「もうすぐよ」と謎の言葉をかけます。

ヘレンに惹かれつつもアンナに執着し、アンナへの愛と嫉妬に狂ったマルクは、彼女のために破滅への道を突き進み、警察に追い詰められますが、いよいよ死を覚悟した時、アンナが「完成したわ」とマルクと同じ顔をした男を連れて瀕死のマルクの前に現れます。

どうやらあのクリーチャーが人間の姿に成長したらしい・・・マルクもアンナも警察に射殺され、その場で息絶えますが、クリーチャー男は白アンナことヘレンの元へ。彼を迎え入れたヘレンは、彼に感応したかのように邪悪な世界に目覚め、戦争による世界支配を夢想し始めます。

 

愛の葛藤からオカルト世界へ

 

ページをめくるのももどかしいとばかりにプロローグを破り捨て山場から小説を読み始めるみたいに、入り口からいきなり異常な世界が始まる異例の展開。

展開の唐突さに負けじとばかりに、音楽もゲリラ的不意打ち、突如クライマックス級のテンションで戦慄を奏で立てます。もろもろ、凄い違和感。いたるところで面喰います。

この定石無視の不安定でいびつな構成が、恐ろしい勢いで破滅へと突き進むストーリーとむしろ得も言われずマッチしていて、新しい黄金比とでも呼びたくなるような均衡を作り出しているのがますます謎。

 

この映画のパンフレットは1,100円とちょっと高いんですが、映画を前から後ろに書き下ろしたスタイルの町山さんの解説がついていて、見落とした箇所を補ってこの怒涛の不条理展開を遂げる物語がどこへ向かおうとしているのかを理解するのにとても役立ちました。

町山さんいわく、この作品はズラウスキーが妻に浮気され離婚された経験をデフォルメしてズラウスキー版『アンナ・カレーリナ』を作り上げつつ、物語に東西冷戦を投影したもの。

たしかに、主人公の妻・アンナの浮気相手のプロフィールなどいくつかの点がズラウスキーの経験と重なっているんですよね。そして妻の名がアンナだということも、まさに『アンナ・カレーニナ』を意識した作品であることを裏付けています。

 

ただ、この作品がHNTムービーであるゆえんは、突如夫の理解できない世界に目覚めた妻を悪魔憑きという形で表現した大胆なデフォルメの部分にあります。これによって浮気妻の物語は日常の殻を突き破ってオカルトの領域にワープ。オカルト妻が狂気と背徳の限りを尽くす・・・ここにエロとグロと変形スカトロ?が混ぜ込まれ、めくるめくHNTワールドが完成する、というわけです。

 

青い服は聖母マリアの象徴。なんとこれは聖母子の物語だった

美しい女が見るもおぞましい化け物に犯される、ただそれだけの作品ならこの世に掃いて捨てるほどあります。北斎の浮世絵にだってあるくらい。昔も今も何故かエロい怪物は触手タイプが人気なんですねえ。(下に北斎の「蛸と海女」の画像を入れていたんですが、どうやらNG画像だったようで削除されました。春画は北斎すらもダメなんですね~。)

本作のクリーチャーも、その姿ははっきりとは描かれていないにしろ、触手のあるタコに似ています。

しかし、この作品が突き抜けて背徳的なのは、悪魔に憑かれたようにしか見えないアンナが聖母マリアに重ねられていることです。

 

アンナは劇中ぶっ通しで1枚の青いワンピースを着ています。

アンナと同じ顔をしていながら天使のように無垢なヘレン(イザベル・アジャーニの1人2役)が常に白いワンピースを着ているのと対照的。さしずめ2人は、白アンナと黒アンナという位置づけでしょう。

しかし、黒アンナの服は黒ではなく青なんです。西洋でも青は白と対立する色ではないはず。

何故アンナの色は青なのか・・・それは、青は聖母マリアの色だから。聖画の中のマリアは、必ずと言っていいほど青いマントを纏っていますよね。

アンナがマリアと重ねられていると言う根拠は、単に服が青だからというだけではありません。

この作品には、アンナが或る教会の中で、磔刑のキリスト像をじっと見上げながら奇妙なうめき声をあげ、体をくねらせている不可思議な場面があります。彼女のうめき声を例えるなら、春先の猫のあれがもっとも近い。

そして次のシーンでは、地下道で口から股間から謎の液体をまき散らしながらのたうち回るアンナ。この時、アンナの手にはキリストが釘打たれたのと同じ場所に緑の眼が現れているんですよね。

アンナが垂れ流す液体は、彼女が隠れ家で育てている謎のクリーチャーの粘液と同じ色・・・つまりあのクリーチャーは、アンナとキリストが一体になって産み落とした、彼女の(男の)子供と解釈せざるをえません。

 

ちょっと待った、聖母マリアはキリストの母親なんだから、キリストと合体して子供を産んだら近親相姦になってしまうじゃないか、と疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。

いやいやそうなんです。でもこの作品でアンナは自分の産み落とした怪物とセックスしてるんですよ。つまり、紛れもなく近親相姦。このあたり、ちゃんと辻褄は合っているんです。

このあたりでかなり不快になった方も多いと思いますが、もう少しだけ我慢して下さい。

たしかにこのおぞましい文脈が、本作のHNT性を高める燃料でもあるのですが、同時に、全く別のテーマに向かう意図も含んでいるのでは・・・という気がしています。

 

究極の黒フェミニズム、完成。

「あなたの奥さんにとっての自由は、あなたにとって悪に見えるのよ」

白アンナことヘレンのマルクに向けられたこのセリフ、個人的にはこの一言に本作のテーマが暗示されている気がしています。

つまり、女が男の支配から解放されること=フェミニズムに目覚めた女と、それを異教徒か悪魔でも見るような眼差しで眺める男。しかも、男は女への愛にとりつかれているんですね。

妻の心変わりから始まるストーリーは一見『アンナ・カレーニナ』ですが、愛のために何もかも失って死ぬのは男のほう。その意味で、本作は『逆アンナ・カレーニナ』とも言えるのかもしれません。

 

ただ、ここで重要なのはフェミニズムのほう。

黒アンナがかつての不倫相手ハインリッヒに投げつける「あなたも普通の男なのよ」という言葉、また、マルクに向けられた「「彼」(おそらく彼女が生んだクリーチャーの父である神)を知っていたら(マルクとの)子供を産んだりしなかった」という言葉も暗示的ですね。

完全に「普通の男」から解放されたアンナは人間の男を介在させずに子供を産みます。そして彼女はその子供を自分の意思で育て上げ、自身が支配します。ここは、同じく神の子を産みながら、息子を神にささげたマリアとの決定的な違いです。

アンナは一見悪魔にとりつかれたように見えますが、この作品の文脈を追ってみると、「悪魔」はアンナの中に内在していた欲望の解放そのもの。彼女は支配されたのではなく自らが作り出した息子を従え、世界を支配する存在になるのです。

(アンナが男に媚びを売る女・マージを「私の邪魔をする」という理由で殺したのも、フェミニズム的文脈と整合しています。)

これが、ズラウスキー的フェミニズム。ただし彼がフェミニズムに否定的であることは、黒アンナが育てた息子を家に迎え入れた白アンナの眼が緑色に変化し(緑の眼は本作では邪悪な魂のシンボルです)、戦争を思わせる轟音に包まれながら微笑むラストシーンに仄めかされています。

力を手にした女は、男と同じく戦争を好む、ということでしょうか。何かとても、不穏で邪悪な空気に満ちたエンディング。

この辺、妻に捨てられた男ズラウスキーの恨み節にも見えてしまいますね。逆に、彼の元を去った妻は、この映画を観て苦笑いしたんじゃないかと。

 

狂気とオーガズム

 

さて、この作品が複雑なテーマを持った作品だということを力説したところで、HNTのお話に戻りたいと思います。

美しい女が狂っていく過程、もうそれだけで男性にとってはエロチシズムの坩堝かもしれませんね。何故そうなのかを考えてみるに、多分狂気は自己解放の一形態で、自己解放はオーガズムともつながっているからではないかと。だから、地下道で口から股間から妖しい液体を垂れ流しながらのたうち回るイザベル・アジャーニの姿に、狂気・錯乱以上のもの、一種のエクスタシーを見るのかも・・・その辺、ぜひ男性陣のご意見をうかがってみたいもんです。

 

一方、女の私から見るとあのシーンは貞淑な妻・母を演じていたアンナが自分を解放していく儀式に見えました。

ちょっとテンション低めの発言ですが・・・そうなんです。私はこの作品のHNT性に魅せられつつも、あと一歩ノれないところがあったんですよね。

私は、この当時のイザベル・アジャーニの完璧な美貌には、狂気よりもむしろ強さ、つまり私の中でHNTとは相容れない要素のほうを強く感じたんです。

私にとってHNT映画の極北は『愛の嵐』で、シャーロット・ランプリングこそが理想のHNT女優。あの狂暴さと気高さと脆さとをアンバランスなままに共存させた三白眼、やっぱりあれだと。

もっとも、この作品は『愛の嵐』のような一直線に破滅に向かう物語ではなく、アンナが支配者になる物語ですから、イザベル・アジャーニの完璧な美しさ=強さのほうがふさわしいのかもしれませんが。

 

ナチスの狂気と死者の怨念が残るベルリンという舞台

町山さんの解説によると、この作品が西ベルリンで撮影されたのは、この直前にズラウスキーがポーランド政府から国外追放を通告されたためだったようです。

ただ、それだけとも思えない。ベルリンと魔の物語って異様に相性がいい気がして。

この作品では1980年代の繁栄を取り戻したベルリンの様相を避け、敢えて廃墟じみた雰囲気を湛えたロケーションを選んでいます。

印象深いのが、街角に建てられた十字架。生々しい戦争の爪痕、まだそこかしこにナチスの狂気の残滓・戦争の犠牲者の怨念が漂っているかのような暗さが、映像から滲み出ているんです。

この時代の西ベルリンには壁の向こう側の世界に通じているスパイも多数跳梁跋扈していたのでしょうし、さまざまな意味で魔の降臨する地にふさわしい場所だったのではないかと。

 

この作品を観て思い出したのが、去年のリメイク版『サスペリア』。オリジナル版の舞台はドイツのフライブルクだったのに、何故舞台を西ベルリンに移したのかが不思議だったんですが、もしかしたらこの作品を意識していたのかもしれないな・・・という気がしてきました。

冷戦時代、ベルリンの壁には、魔界との境に張られた結界みたいなイメージがあったんでしょうか。