『ホドロフスキーのDUNE』 シュルレアリスムと預言で紡ぐ宇宙 | シネマの万華鏡

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(ホドロフスキーの熱意あふれる魅力的な語り口にはついつい惹き込まれて夢中にさせられるものが)

 

少しおひさしぶりの更新になりました。

このところ或る専門雑誌の記事を書いてました。この春たまたま知人の紹介で依頼が舞い込んで署名記事を書かせてもらって以来、ちょくちょく依頼をいただいているありがたいお仕事です。

複雑な話を解きほぐす必要があるので、ブログにかまけていると失敗しそうで、少しの間更新をお休みしてました。

「固い話をわかりやすく解説する」というミッションの書き物は私に向いてるみたいです。ただ、やっぱりどうせ書くなら映画のことが書きたい!! 映画の記事の仕事が天から降ってくることは私の場合はありえないので、書きたければ面白い企画を出し続けるしかないんですが。。。なかなか難しいです。

 

実現しなかっただけに誰も超えられないホドロフスキーの『DUNE』

 

ブログをお休みしてる間、アレハンドロ・ホドロフスキーの映画を何作か観ました。

来年の秋にドゥニ・ヴィルヌーヴが監督する『DUNE 砂の惑星』が全米公開されるということで、『ホドロフスキーのDUNE』(2013年)を観たのがきっかけ。

1970年代半ばにホドロフスキーがフランス人プロデューサーと組んで取り組んでいた『DUNE』について、原作の映画化権を買い取るところからハリウッドで一旦は実現の話が進みながら頓挫するまでのいきさつを、ホドロフスキー本人と当時の関係者が語るドキュメンタリー。映画製作のために準備されていた絵コンテや建造物・衣裳のデザイン画など、貴重な資料もふんだんに紹介されています。

 

『ホドロフスキーのDUNE』でホドロフスキー熱が盛り上がって、『リアリティーのダンス』に『エンドレス・ポエトリー』にと、観そびれていた作品を鑑賞。ついでに『エル・トポ』と『ホーリー・マウンテン』も観直しました。

『ホーリー・マウンテン』は一緒に観に行った友人が最初の30分くらいで席を立って戻って来なくなるというハプニング(その理由はこの映画を観たことがある方にはピンとくると思いますがw)に見舞われ、そっちの意味で強烈な印象が残った作品だったんですが、今回観直して、立ち込めていた霧が晴れて奥の院のおぼろげな形が見えてきた感じ。

一歩ホドロフスキーの世界に近づけたのかな・・・なんて、ひとりで盛り上がっています。

 

それにしても今回の『DUNE』リメイクはヴィルヌーヴが『ブレードランナー』の続編『ブレードランナー2049』にチャレンジしたこと以上に凄い事件なんじゃないでしょうか?

本作が「リメイク」なら対応する「オリジナル」は幻に終わったホドロフスキー版ではなく、デヴィッド・リンチが監督した1984年の『DUNE~』になるんでしょうが、映画ファンが期待しているのは「ホドロフスキーの幻の『DUNE』を超える作品にすること」では? 

そのミッションの難易度は、ブレラン続編をはるかに超えるんじゃないかと・・・なにしろホドロフスキー版『DUNE』は凄まじい企画ですから。

しかも、企画段階で映画会社が中止を決断して結局撮影には入れなかった「幻の大傑作」だけに、今後誰がどんな素晴らしい『DUNE』を作ったとしても決してホドロフスキーの「幻の『DUNE』」を超えることはできない気がします。

考えれば考えるほど、凄い重圧。

 

ただ、才能がある、期待されてるというだけじゃなく、幻の『DUNE』に挑むチャレンジャーとしてドゥニ・ヴィルヌーヴが選ばれたのには必然性があるということ、そもそもホドロフスキーの下での『DUNE』製作を断ったユニバーサル・ピクチャーズがデヴィッド・リンチ版『DUNE』を作ることになったワケも、今回このドキュメンタリーを観てよくわかりました。

そして、『DUNE』を作れなかったホドロフスキーがいかに『DUNE』の世界観に大きな影響を与えているかということも。

 

『DUNE』の世界観にシュルレアリスムを持ち込んだのはホドロフスキー

(ギーガーがデザインしたハルコンネンの城。口が入り口になってるとか。映画で観たかった!!)

 

ホドロフスキーの『DUNE』を観た人はこの世に誰もいません。でも、このドキュメンタリーの中で彼がコテコテのスペイン語訛りの英語で語り倒す『DUNE』への熱い思いを聞けば、彼がこの作品の映画化に注ぎ込んだただならない熱量を知ることができるはずです。

彼はこう言います。

預言書を作ろうと考えた。

世界中の人々の意識を根本から変えたい。

私にとって『DUNE』は神の降臨だ。

芸術と映画の神の降臨。

こんなことを言われたら、どうしても彼の『DUNE』が観たくなるか、人の心のど真ん中を素手で掴もうとするかのような強烈な言葉に怖れを抱くか、2つに1つ。

ただ、こう語るホドロフスキーの子供みたいにキラキラした眼や、全身全霊で語り掛けてくる姿を見たら、大多数の人は彼の「聖なる創造」の世界に惹き込まれてしまうんじゃないでしょうか。

『DUNE』(の企画)で建造物のデザインを担当した画家のクリス・フォスが本作の中で「ホドロフスキーには人を惹きつける力がある」と言っていますが、その力はこのドキュメンタリー1本からも空気を震わせる勢いで伝わってきます。ホドロフスキーは電磁波を発してる、と言われたら信じてしまうくらいに、何かビリビリくるんです。

人を魅了するルックスに、強烈な言葉。これぞ預言者の資質。あるいは希代の詐欺師になりうる才能。監督作『ホーリー・マウンテン』でホドロフスキーは自ら錬金術師を演じていますが、彼はリアルに現代の錬金術師と呼べる人物かもしれません。

 

そんなホドロスキーが若き日にシュルレアリスム運動に魅せられ渡仏したのは、必然的な流れに思えます。

シュルレアリスムにはある種の「離陸」があります。単に現実と非現実の世界が交錯するというだけではなくて、人間の原点・深淵への離陸。深くうずもれた真理の希求。そういうベクトルを持った離陸だけが、シュルレアリスムと呼びうるものです。或る種の神秘主義であり、魔術であり、人によってはまやかしと呼びかねないもの・・・『ホドロフスキーのDUNE』でホドロフスキーの話を聞いていると、彼が目指す方向性がシュルレアリスムのそれにピタリと重なってるということに気づかされます。ホドロフスキーの長年のテーマであるらしいタロット研究も、実はまっすぐにそこにつながってる。彼がマルセイユ版タロットにこだわっているのも、シュルレアリスム宣言で知られる詩人のアンドレ・ブレトンからマルセイユ版を奨められたことがきっかけだったようです。

 

当然の帰結として、彼が構想した『DUNE』もシュルレアリスムの濃厚なエッセンスではちきれんばかり。

シュルレアリスムの巨匠・ダリを銀河帝国皇帝として出演させるアイデアはもちろん、ダリの紹介で建築デザインを任せることになったH・R・ギーガーの作り出す強烈な魔術的世界観にしても、それだけで作品の看板としてシュルレアリスムを掲げるほどのインパクトを持つものです。

 

シュルレアリスム的要素はフランク・ハーバートの原作小説にはなかったもの。SFだから現実からの「離陸」はあっても、離陸の方向性は全く違うし、原作は生態学をテーマにした小説です。

ところが、ホドロフスキーのあまりにも壮大な(プロデューサーのミシェル・セドゥーの言葉を借りれば「狂気が強すぎた」)『DUNE』に不安をおぼえた映画会社が彼の代わりに『DUNE』の監督に迎えたデヴィッド・リンチは、当時シュルレアリストにカテゴライズされていた作家。(私はこのカテゴライズにはちょっと疑問符を付けたいんですが)

今回監督を任されることになったドゥニ・ヴィルヌーヴも、『複製された男』以来、シュルレアリスム作品の功者とみなされている人。ブレランを監督することになったのもその流れでしょう。

シュルレアリスムという要素は、いつの間にか『DUNE』の所与の成分になってた・・・それ自体、ホドロフスキーの世界観に制作関係者たちが取り込まれていた証と言えるんじゃないでしょうか? このドキュメンタリーを観ればわかりますが、このほかにも、ホドロフスキーって『DUNE』を作らずして『DUNE』の世界観に多大な影響を与えているんですよね。

こんなことができるのはホドロフスキーくらい。それだけ彼の『DUNE』構想は強烈な魅力を放っていたということなんでしょう。

 

イコノグラフィーと預言に満ちたホドロフスキーの世界

銀河帝国皇帝がダリ、ハルコンネン男爵にオーソン・ウェルズ、男爵の甥のフェイド・ラウザにミック・ジャガー、さらにダリの愛人のアマンダ・リアに、アンディー・ウォーホルの世界からはウド・キアが参戦。主人公のポールは『エル・トポ』にオールシーン全裸で出演したホドロフスキーの息子。

音楽はピンク・フロイドにマグマのロック、フランスのSFバンドデシネのエッセンスにH・R・ギーガーの暗黒世界、ダン・オバノンの特殊効果・・・まるでウォッカと糠みそとフォアグラを混ぜ合わせたような濃さ。実現していたら歴史的大傑作か災害的失敗作かのどちらかになったこと間違いなしです。

しかもホドロフスキーは上映時間は12時間、いや20時間だ、と言い張っていたみたいですから、そりゃ映画会社が怖くなったのも分かりますが、ディザースターを恐れずに作ってほしかったですね。

のちにダン・オバノンがギーガーにクリーチャー・デザインを任せて作り上げた『エイリアン』(冷静に考えるとこれもかなりイカれた作品ですよ?)が20世紀フォックスから配給されて大ヒットした時には、ユニバーサルも「しまった・・・!」という気分になったかもしれません。

 

本作で紹介されている『DUNE』の絵コンテやデザイン画は魔術的美しさに包まれていて、これを見るだけでも凄い体験に思えます。

個人的にはもうひとつ、『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』を理解するためのヒントもたくさん得られた気がしました。

ホドロフスキーという人は本当に多才で、映画作家というのは彼の1つの顔に過ぎない。詩人であり、パントマイム・アーチストであり、タロット研究家であり、舞台演出家であり、また俳優でもあります。ロシア系チリ人であり、ユダヤ人でもある。

そんな中で、詩とタロットは、彼の作り出す世界を理解するうえですごく重要な要素になっている気がします。

彼にとって詩は預言であり、哲学であり、象徴であり、彼の映画そのものでもあるということ。

その強烈なメッセージを表現するために、タロットから学んだイコノグラフィーが威力を発揮しているということ。

 

(『ホーリー・マウンテン』などホドロフスキー作品に織り込まれた神秘的で強烈な構図にはタロットの影響が)

 

彼の作品はストーリーや脈絡ではなく、イコノグラフィーの集合体なのだと考えると、分かりやすい。構図と言葉の中に散りばめられた宝石のようなメッセージを拾い集めながら観る楽しさ。

『エル・トポ』で、エル・トポが息子(オールウェイズ全裸)に「7歳になったのだから、おもちゃと母親の写真を埋めるんだ」と砂に埋めさせ、馬に乗って去っていくこの↓構図も、もうこの1枚だけですでに完成された物語を作り上げています。詩情溢れる絵。既成概念の破壊と世界観の再構築がホドロフスキー作品のベクトル(だから人々は多くの場面で全裸なのです)ですが、表現の面でベースになっているのは詩とタロットのエッセンスなのでは・・・という気がしています。

 

 

ホドロフスキーがかつての情熱を再燃させる勢いで語りつくすドキュメンタリーだけに、彼の作品づくりの真髄がほとばしり出てる。こんな感動的なインタビュー映画は初体験です。

 

今年90歳のホドロフスキー。来年の『DUNE』を観てどう言うでしょうか?

このドキュメンタリーでデヴィッド・リンチの『DUNE』を「大失敗だ!!」と笑い飛ばしているように、来年も元気はつらつで「大失敗だ!!」と叫んでほしいもんです。