『パルプ・フィクション』 ダンスのジョン・トラボルタ、ダンスで復活! | シネマの万華鏡

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ワンハリからの・・・

タランティーノのワンハリこと『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』、2回目行きました。

今月はフリーパスなので、あと2・3回は観たいな。

タランティーノの作品って毎回そうですが掘っても掘ってもネタが尽きない! なんせトリビアのカタマリですからね。

今回のワンハリは特に、セルフオマージュ満載なので、過去作の観返し甲斐もあるというもの。

というわけで、今回は『パルプ・フィクション』(1994年)です。ただこの作品とワンハリの直接の関連はないかもしれません(ユマ・サーマンの足裏のショット以外)。

 

作品に関するトリビアは町山さんの映画塾でさらうのが早道ですね。

タランティーノ作品のトリビアは多すぎて、自分ではとてもとても確認しきません。タランティーノどんだけ?!です。ざっくり全体を網羅してくださった町山さんに感謝ですね。

 

 

あらすじなどないっ (`・ω・´)キリッ

毎度あらすじだけは誰も語れないタランティーノ作品(ネタバレ厳禁だからじゃなくて物理的に不可能な次元)の中でも1・2を争う筋なしなこの作品のあらすじを語るとしたら? 試しにやってみるのも面白いかもしれませんが、ここで頑張っても実りは薄い気がするのでやめときますw

 

とりあえず言えることは、群像劇だということ。

マーセルスなるギャングの手下2人(ジョン・トラボルタとサミュエル・L・ジャクソン)をめぐるストーリーと、マーセルスが仕切る賭けボクシングで八百長を依頼されるボクサーのブッチ(ブルース・ウィリス)を追ったストーリー、この2つが軸。そして彼らの運命がある一点で交錯することによってひとつの結末がもたらされます。

ただ、他のタランティーノ作品と同じく、起承転結なんぞ犬に食わせろ。全体像を眺めるよりディテールの遊び心を味わう映画です。思い切り近視眼的に細部を拾うのが楽しみかたの極意でしょうね。

 

今回町山さんの解説を聞いて物凄くタメになったのは、タランティーノはこの作品をゴダール作品を意識して作ったという話。

町山さんの解説によると、ゴダールの『勝手にしやがれ』や『はなればなれに』はアメリカのB級アクション暗黒映画を自己流にアレンジしたものだとか。タランティーノはこのヌーベルヴァーグ経由のフィルムノワールの逆輸入を試みた。それが『パルプ・フィクション』なんだそうです。

なるほど、たしかにタランティーノ作品の筋なし×意味のないマシンガントークが続くスタイルは、ゴダールとの共通点ですよね。以前からゴダールを意識してたのかも?

本作はアカデミー賞受賞作を多数生み出した(ミー・トゥー問題のほうが有名?)映画プロデューサーのワインシュタイン氏(当時ミラマックス社長)もプロデュースに参画して、世界的に絶讚され、大ヒットしたわけですが、「ゴダールのオマージュ」というコンセプトが売り文句になっていたと考えると、世界がひれ伏した理由もわかりやすくなります。

 

ただし、ゴダール風か否かによらず、やっぱりこれ面白いんですよね。

理屈抜きで・・・と言ってしまったらこの記事がここで終了してしまうので、以下、敢えて少し理屈を考えてみたいと思います。

 

ナンセンスとバイオレンスの不思議な均衡

 

タランティーノって、選曲センスには絶対的と言えるくらい定評がありますよね。

音楽に詳しくないのであまりそこに突っ込めないのが残念ですが、この作品でも冒頭から思いきり期待感をあげてくれるのがテーマ曲の『Misirlou』。

『Misirlou』の旋律抜きで本作を思い出すのは不可能なほど、いまやこの作品のイメージそのものと化しています。

曲と共に始まる、ティム・ロス&アマンダ・プラマーのカップルによる超場あたり的なファミレス強盗も、その後2人がラストシーンまで全く登場しない不思議さも含めて、迷走感がたまらなくいいんですよね。

 

それにしても、全体に脱力系のナンセンス・トーンとバイオレンスとが奇跡的なバランスで均衡してるタランティーノの作風って、一体どこにバランスの極意が秘められているんでしょうか?

ものすごく表層的すぎるのも、逆に油断ならないように思えてしまう。

薄く薄く、散漫に散漫に・・・しかもその作風を『パルプ・フィクション』(三文小説)と自ら名付けられたら、これは既存の映画へのアンチテーゼなのかも?と身構えてしまいますよね。

ところが、矯めつ眇めつ眺めても、そういう尖った姿勢はまるでなかったりする。本気のパルプ・フィクション。。。そこがまた余計に得体が知れなくて、否が応でも惹き込まれる所以です。

 

ジョン・トラボルタを復活させた脱力系ダンス・シーン

 

この映画、そもそもはタランティーノが『サタデー・ナイト・フィーバー』で伝説的ダンスシーンを披露したジョン・トラボルタを復活させたくて作った作品なのだとか。

 

(『サタデー・ナイト・フィーバー』の頃のジョン・トラボルタ)

 

ただ、そのわりにはジョン・トラボルタ演じるヴィンセントはちっともカッコいい役じゃないんですよね。

たしかにクレジット順を見ればジョン・トラボルタが主演、彼が演じるヴィンセント・ヴェガなるチンピラが主人公のはずなんですが、彼にヒロイックな見せ場はひとつもないし、どっちかと言えば相棒のジュールズ(サミュエル・L・ジャクソン)にリーダーシップを取られてる。

しかも『サタデー・ナイト・フィーバー』の頃のシャープなシルエットとは別人のようにもっさりムックリしたジョン・トラボルタに、長髪のヅラが絶望的に似合わない・・・

その上さらに、ヴィンセントには普通なら絶対に主人公の身に起きるべからざる事件に見舞われてしまうんです。ガチでマヌケであちゃーな役柄。

 

でも、よく見ると、これがちゃんと彼のための映画になってるんですよ。

というのは、トラボルタと言えばダンス!な彼のために、ちゃんとダンスシーンが用意されてるんです。それも、彼に往年のディスコダンスを躍らせるなんて野暮な見せ方じゃなく、逆に当時とは全く別のトラボルタの魅力を200%引き出したダンス・シーンが。

 

このシーンは、ヴィンセントがボス溺愛の新妻ミア(ユマ・サーマン)のお守りを頼まれ、彼女を食事にエスコートするシチュ。ちょっとミアの足をマッサージしただけでボスに半殺しにされた人間がいるという噂にビクつきながらもこわごわ彼女の相手をするヴィンセントですが、ミアに強硬にツイストコンテストに引っ張り出され、ステージの上で2人でツイストを踊る羽目に。

ちょっとマッサージで半殺しなら、ダンスなんか踊った日には??

困り果てながらもミアのリードに合わせて踊るヴィンセント・・・

このシーンが凄くイイんです。

もはや吸い寄せられるのはカッコ良さじゃないんですね、ぽっこりお腹のトラボルタが見せる絶妙な体のキレ! このギャップもたまらないし、まるで獲物を狙う肉食動物みたいにグイグイ来るミアの踊りに合わせて、困惑を露わにしながらもついつい体がノッてくる感じ・・・それがすごくビミョーながら、ピンポイントで笑いのツボを突いてくるんです。このピンポイントで痒いところに手が届く感じが病みつきもののキモチ良さなんですよ。

 

ダンスの後はからずもミアにポッとなっちゃう下りも、その後ヴィンセントを襲う唐突な悲劇とあいまって、おとぼけヴィンセントに哀愁を漂わせていく。観終わる頃には、たぶん誰もがヴィンセントのファンになっているんじゃないかと。

 

ヴィンセントのキャラ付け自体が絶妙なのもありますが、それがトラボルタの個性と重なり合ってる感じが最高なんですね。

役から本人がはみ出してる感じ? 

俳優語りがしたくなるのも、タランティーノ作品ならではの魅力だと思います。

 

トラボルタに限らず、サミュエル・L・ジャクソン、ブルース・ウィリス、ティム・ロス、ハーヴェイ・カイテル、ユマ・サーマンと、今にしてみると物凄いオールスター・キャスト。でも、実は殆どタランティーノの作品で復活したりブレイクした俳優陣です。

サミュエル・L・ジャクソンも本作がブレイクのきっかけだったとは・・・タランティーノの嗅覚、凄いもんです。

 

2つの軸をつなげてるのはアホな下ネタ

さて、トラボルタたちはマフィアサイドですが、もう一つの軸を構成するブルース・ウィリス演じるブッチのほうは、マフィアに追われる側です。

この2組って単にマーセルスを接点にしてつながっているというだけで、基本それぞれのストーリーは関連していません。一体何故この2組のストーリーを並走させる必要があったのかもよく分からないし、時間軸のいじり方も独特なんですよね。

ただ、敢えて言えば、基本は交わらないはずの2つのストーリーが或る一点で交差する、しかもその交差する原因が下ネタだというところにこの作品の「くっだらないけど面白い」、まさに「パルプ・フィクション」(三文小説)たるゆえんがあるのかもしれません。

 

マーセルスを裏切って稼いだ金を持って逃げようとするブッチは、自宅に父親の形見の金時計を忘れてきたことに気づき、マーセルス一味の待ち伏せに遭う危険も顧みず自宅に時計を取りに戻ります。

実はその時計というのがシモのいわく付き。

軍人だったブッチの父親がベトナムで捕虜になってる間ア〇ルに隠し持っていたもので、しかもそれを父の形見としてブッチに届けてくれたのは、そこはかとなく父親とのホモセクシュアルな関係を感じさせる「戦友」・・・というのはこの「戦友」を演じているのがクリストファー・ウォーケンだから。

 

 

ベトナム戦争&クリストファー・ウォーケンと言えば、否が応でも『ディア・ハンター』を思い出さずにはいられません。で、『ディア・ハンター』でクリストファー・ウォーケンが演じているニックは・・・あとは私の『ディア・ハンター』の記事を読んでくださいね。

まあとにかく、この金時計自体が下ネタなんです。

 

この時計がいかにア〇ルネタを呼び寄せる因縁の時計かということは、この時計を取りに戻ったことでブッチはマーセルスに出くわし、死闘を繰り広げるうちに巡りめぐって何故かマーセルスが第三者にア〇ル・ファックされる羽目に陥り、それをブッチが救うーーという壮絶な迷走展開につながっていくことが明確に証明しています。

本作のストーリー上こんな展開になる必然性は全くないんですが、それもこれも全て、2つの並走するストーリーを下ネタで結び合わせるためなんですね。

 

そして、金時計を取りに戻ったブッチがもう一人遭遇することになるのが、ヴィンセント。裏切者ブッチを自宅で待ち伏せていたのは彼だったんです。

ヴィンセントはヴィンセントで下ネタの宿命を持っている。彼は劇中何度もトイレに・・・いわゆる頻尿なんです。そういうわけで、丁度ブッチが戻って来た時もキッチンにマシンガンを置いてトイレに入ってた・・・

ここでア〇ルないわくを背負ったブッチと、頻尿のヴィンセントという宿命の下ネタコンビが、その宿命ゆえに鉢合わせるわけです。

この運命の鉢合わせで、主人公ヴィンセントは命を落とすことになる、と・・・そこまで下ネタでまとめなきゃいけない理由も分からないけど、そうなってる。

惨劇の後倒れたヴィンセントの横に落ちていたのは、彼がトイレで読んでいた三文小説、つまりpulp fiction・・・

ちなみにここでは「肝心な時にトイレに行っていた」ことがアンラッキーに転ぶわけですが、別のシーンでは彼はトイレまわりで奇跡的な幸運に遭遇しています。妙に登場人物の人生のプラマイがバランスしてるのも本作の小ネタのひとつです。

 

ストーリーだけ見れば16コマくらいの不条理漫画を映画に引き伸ばしたような感じ。

そんなの面白いの?と観てない方には言われそうですが、これが何度観ても笑えるし、なんならちょっとほっこりした気分にさえ。(個人差はあるとは思いますが)

うーん、『パルプ・フィクション』の引き起こす笑いのメカニズムを説明するには、私はまだ修行が足りないようです。

ただただ、中毒性のある笑いが楽しめる、とだけ。