これも違和感が詰まった名作
『ディア・ハンター』をユジク阿佐ヶ谷で観賞。4Kリストア版のはずでしたが設備の都合上2Kだそうです。やはりか。
でも、いつもいい映画を安い料金で見せてくれるので、全然問題ありません(笑)
それに、個人的には2Kで十分ですしね。
ベトナム戦争に赴いて心に傷を負った3人の若者の生と死を描いたM・チミノ渾身の一作。彼らの故郷であるペンシルヴァニアの田舎町を描いた淡々としたタッチが、一転、戦場では苛酷なまでの描写に切り替わり、よりいっそう戦争の悲惨さを訴えかける。中でも“ロシアン・ルーレット”の迫真性はただ事ではなく、それが再び繰り返されるクライマックスにはどうしようもないやりきれなさが漂う。アカデミー作品・監督・助演男優・音響・編集賞を受賞。
(allcinema ONLINEより引用)
主人公のマイケル役をロバート・デ・ニーロ、その親友ニックをクリストファー・ウォーケン、そしてニックの恋人のリンダはメリル・ストリープ。
そのほか彼らの友人たちに、ジョン・サヴェージ、ジョン・カザールなど。
この作品、観ている時の気分(ロシアン・ルーレットのシーン以外ねw)・観終わった後にこみあげてくる気分に何か格別なものがあって、とても好きな作品なんですが、同時に、いびつさが際立った作品だなという印象も。かなりツッコミどころも多いと思います。
そんなわけで、『ラストタンゴ・イン・パリ』に続いて今回も違和感から入ってみることにします。
長~い結婚式の意味
(この作品のヒロインはメリルじゃなくクリストファー・ウォーケンでしょうね)
最初に来る違和感は、冒頭からスティーヴン(ジョン・サヴェージ)の結婚披露宴の一夜のシーンまでの長さ!!たっぷり1時間はあります。
183分もある長い映画と言っても、その3分の1! 結婚式は導入部にすぎないと思っていたこともあり、結構面喰らいました。
ただ、最後まで観終わって気づかされるのは、結婚式のシーンでほぼ全編の展開が予告されていること。
出征するスティーヴンの身に不幸が襲うこと、ニックが故郷を離れた場所で死ぬこと、健康体で帰還できたマイケルも戦争で心に傷を負うこと、マイケルのセクシュアリティやマイケルとニックとリンダの複雑な関係まで!
結婚式の夜、ニックがマイケルに、
「俺の全てがこの町にある、だから俺が死んだら必ずここに連れて帰ってくれ」
と言うんですが、彼ら全員がこの町で過ごした最後の夜にこの作品の全てが集約されているという意味では、この映画の全てもこの町にあるのかもしれません。
そしてこの彼らのホームタウンへの強い思いをしっかりと印象付ける構成が、本作の溢れるような情感・余韻の源泉にもなっています。
それにしても長い。
ここまで長くても間が持つのは、この結婚式がマイケルとニック、そしてスティーヴンが出征する前の最後の週末の出来事だから。
右も左も笑顔ばかりのハメをはずしたバカ騒ぎか続く中で、もしかしたらもう二度と会えない人間がいるかもしれないことを皆知っているけれど、誰もそれを顔には出しません。
壁に貼られたひと際大きな(きっと戦死した)同胞たちの肖像が、皆が言えない言葉を無言で物語っています。
彼らがロシア系移民のコミュニティーの人々だということも、結婚式で明らかになる重要な要素。彼らは、こんなふうに同胞が集まる機会にはロシア民謡を歌い踊り、ウォッカを飲んで、思い切りロシア人に戻ります。
多分この町のロシア移民たちがこの国で恵まれた状況にはないことは、リンダの父親のすさみ方にも仄めかされています。実際、冷戦中はロシア系移民は肩身の狭い思いをしたんでしょうね。
そんなロシア移民が、アメリカの正義のためにベトナム戦争に徴兵され、ソ連と戦う。その虚しさはこの作品の中でベトナム戦争そのものの虚しさにつながっていきます。
そういう意味でも、この作品の全てはあの長い結婚式にあるのかもしれません。
これ以降のシーンは相当観念的な作りになっていて、リアリティーを言い出せばツッコミどころはかなりあります。
戦場シーンのメインがロシアン・ルーレット?な不思議
そもそも、ベトナムの戦場でのシーンの大半がロシアン・ルーレットで占められている、これはどうしたって違和感があります。
ベトナム兵が捕虜にロシアン・ルーレットを強要する描写になっているんですが、実際にこういう行為が行われたとは報告されていないということで、相当厳しい批判を浴びたようですね。
これについてはIMDbに面白い情報が投稿されていて、もともとこの映画はラスベガスにロシアン・ルーレットをやりに行くという話だったものを、プロデューサーの提案でベトナム戦争を絡めることにしたんだとか。
監督のマイケル・チミノ曰く、この映画はベトナム戦争について描いているのではなく、(ロシアン・ルーレットのような)緊迫した状況における人間の耐性について描いたものだそうです。
もしこの話が本当だとしたら、戦場シーンの不自然さも納得できます。
スタート地点では反戦がメインの作品じゃなかったということは、この作品を観る上での大きなヒントにもなりそうです。
ただ、後付けで戦争を絡めてもあながち当初のテーマを歪めてはいないと思うのは、大義なき戦争は、兵士の立場から見ればまさにロシアン・ルーレットのようなものだから。
「国のため」という大義名分が冠されるか、それとも「金のための無駄死に」と呼ばれるかの違い。突き詰めればそれだけです。
国家の中の報われないマイノリティであることを強く意識していたニックは、虚無感の中で後者を選んだし、マイケルは死を賭して自分自身と向き合った、スティーヴンは恐怖のために精神崩壊しかけたことで重傷を負うことに・・・
それぞれの運命がルーレットによって分かたれていきます。
同性愛を抜きにして『ディア・ハンター』は語れない
はーまたそれですか、と苦笑いされてる方も多いかもしれません。
でも、マイケルのニックへの想いがこの作品の軸になっているということは、今では多くの方がご存知だと思います。
そういう眼で見れば最初から多くの暗示が散りばめられています。
例えば、ジョン・カザール演じるスタンリーが狩りに靴を忘れてきた時、予備の靴を持っているくせに絶対に貸さないと言い張るマイケル。
仲間たちは何故マイケルがそこまで頑ななのか不思議がるんですが、あそこでスタンリーはマイケルに「おまえゲイだろう!」と言ってるんですよね。
スタンリーもみんなも単に冗談のつもりが、実はマイケルは本気で怒っていた。図星だから怒ったんです。
鹿撃ちは、男だけで泊りがけで出かける、同性の仲間とのホモソーシャルな関係性を強める遊び。マイケルは特に鹿撃ちが好きで、現地ではニックだけを連れて行動します。
マイケルにとっては、鹿を撃つことはニックと共に過ごす時間、しかも「鹿を撃つ」という行為自体にシンボリックな寓意があります。
だから、ニックがいなくなった時、マイケルにとって鹿を撃つ意味はなくなってしまったんじゃないでしょうか?
もうひとつ、戦争で修羅場を見て、あたら生き物の命を奪う狩猟に嫌気がさしたということもあるでしょう。
この映画のタイトルが何故『ディア・ハンター』なのか、納得がいく解釈にはいまだに辿り着けていませんが、少なくともこの映画の中では、鹿撃ちには2つの意味がある気がします。
ひとつは、ホモセクシュアルな愛の代償行為、もうひとつは、生き物を殺すゲームです。
ちなみに鹿は発情期以外は同性愛なんだそうです。
実際、同性愛を扱った物語にはしばしば鹿が登場します。
例えば私が記事にしている中では『ベンヤメンタ学院』とかドラマ版『ハンニバル』とか・・・
この作品のタイトルにも、そういう含みがあるのかもしれません。
マイケルとニックとリンダの関係は、ブッチとキットとエッタと同じ
マイケルとリンダとニックの関係は、まさに『明日に向かって撃て!』のブッチとキッドとエッタの関係。『戦慄の絆』の双子と女優の関係とも同じです。
またまた結婚式の夜に戻りますが、出征を控えたあの夜、マイケルはニックと踊りたかった。でも、ニックはマイケルを自分の恋人のリンダと踊らせます。マイケルはニックとリンダの関係を知っているくせに、リンダに気のあるそぶりを見せる。
リンダは2人のもの・・・少なくともマイケルは、リンダの向こうにニックを見ています。
このあたりまさに『明日に向かって撃て!』と同じ。マイケルとニックはリンダを介在してつながっているんです。
ただしリンダはそういう微妙なポジションに置かれていることに気づいていないし、彼女は純粋にニックを愛し、彼との結婚を夢見ています。ニックも、この時点では自分の行動に関して無自覚です。
この3人のねじれた関係性の切なさも、この作品の複雑な情感を作り上げています。
(ニックとの結婚を夢見ていたリンダ)
反戦映画以前に超純愛ストーリー
当初予定していた内容に反戦という要素が加わったということもあってか、かなりいびつなプロットに見える本作。
あまり生きてないシーンも・・・例えば、スティーヴンが子持ちのアンジェラと結婚することになった経緯など、気になるけれど説明されずに終わるモチーフもあります。(ちなみにこの件についてマイケル・チミノは「アンジェラの子供の父親はニックだ」と言ったとか言わなかったとか)
しかも、この映画には全体像の中でアンバランスとも思えるほど突出して観念的な描写に走ったシーンがあるんですよね。
それは、一度は帰還したマイケルが、陥落寸前のサイゴンにニックを探しに戻るシーン。
そしてニックに出会い、何故か2人でロシアン・ルーレットをする羽目になるという。
ここはもうリアリティーを超越していますね。マイケル・チミノが思い描く究極の純愛じゃないかと。
生か死かを分かつのは確率だけという極限状況で、こめかみに当てた銃の引き金を引く寸前、マイケルはついに長年言えなかった一言を口にします。
"Nick, I love you."
70年代にここまで突き抜けた男と男の純愛ストーリー、他にあるでしょうか? 或る意味あれは、2人のセックス・シーンにも等しい・・・というかまさにそれでしょう。
後からいろんな雑味が加わって、ベトナム兵絡みのシーンでは随分非難を浴びたようですが、ベトナム云々は実はマイケル・チミノが描きたかったものではなかった。彼が一番見せたかったのは、ここじゃないんでしょうか?
ただ、結局のところこの作品が映画史に残る名作になったのは、男と男の純愛ストーリーだからではなくて、戦争をはじめいろんな要素が加わった末に生まれた、何とも言えない悲しみと虚しさに満ちた複雑な情感ゆえなんでしょうね。
クリストファー・ウォーケンは何度もゲイ役を演じている人で、間違いなくハマリ役。一方、デ・ニーロは直感的にゲイには見えない。ニックがマイケルに唾を吐くシーンでウォーケンが本気出してしまい、デ・ニーロが激怒したという話も・・・この2人、相性も悪そうです。
その辺で2人の愛にいまひとつリアリティーが付加されなかったのが残念な反面、ゲイ映画として見たらミスキャストとしか思えないデ・ニーロが主演だったからこそ一般ウケしたのかも・・・という気もします。
マイケルと付き合い始めたのに、職場のスーパーのバックヤードで棚卸しながら何故か泣いているリンダ。
そういう、後々になってふっと思い出して胸が詰まるようなシーンがたくさんある映画でもありますね。
時間が経つにつれて自分の思い出と混じり合っていきそうな、あの絶えず煙を噴き上げ続ける工場がランドマークのすすけた町が、いつしか自分の故郷のように思えてきそうな。
恐ろしく嘘くさいストーリーなのに、魂が宿っている。凄いパワーを感じさせる作品です。