『永遠に僕のもの』 美しきモンスターの愛と狂気 | シネマの万華鏡

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見た目に弱い私のチョイス

珍しく仕事でバタバタしていたら、なんと、もう8月が終わろうとしているじゃありませんか! 消費税増税の秋まで秒読み。いよいよ増税前の駆け込み購入の季節が到来しましたよ。

私も、商売道具にもかかわらずかなり情けない見た目になっていたノートパソコンを、増税に背中を押されてやっとこさ買い替えました。

実は私ず~っとVIOユーザーなんですが、SONYがVIO事業を売却して今や別の会社の製品になっちゃったし、さすがに今度という今度はVIOは買わないぞ、と固く決意してたんですよね。

ところがいざ家電量販店に行ってみると、もしかして磁石付いてる?というくらい、真っ直ぐにVIOの売り場に吸い寄せられ。

何だろう、フロアの中でそこだけが燦然と輝きを放ってた感じ? やっぱり私はVIOのキリッとすました佇まい↓が好きで好きでたまらないんですよね。

かくしてまたVIOユーザーに・・・受注生産につき安曇野の工場から自宅に届くのだそうで、やってくるのが楽しみです。

 

 

さて、「見た目に弱い私」というところから、今日の映画『永遠に僕のもの』につながります。

上のメインビジュアルを見ていただくと分かるとおり、美少年もの。それはそれは気になっておりました。

昨日のレディースデイは、この夏のもうひとつのビジュアル系映画、ティモシー・シャラメ主演の『HOT SUMMER NIGHTS』と本作をはしごで観賞。

や~眼福、眼福。

本作がデビュー作になったロレンソ・フェロ・・・単純に美貌という物差しでティモシー・シャラメと比較するのは無粋かなと思うのでやめておきますが、本作の主人公が持つタガの外れた狂気には、彼の不敵な美貌がドンピシャリ。いい意味でじっとり後味の悪さを残してくれる作品でしたね。

 

あらすじ(ネタバレ)

(逮捕されたカルリートス)

 

1971年のアルゼンチンはブエノスアイレス。

両親と共に暮らすカルリートスは、輝くようなブロンドの美少年ですが、生まれつきモラルが欠落しているかのように何の罪悪感も感じず盗みを繰り返す問題児。

悪い評判が立ったことで両親は彼を別の学校に転校させますが、そこでカルリートスは暴力的で美しい少年・ラモンに出会い、ちょっかいをかけてひどく殴られたことがきっかけで一層彼に惹かれ始めます。

一方のラモンもまたカルリートスが気に入り、両親に紹介。カルリートスはラモンの家に入り浸るようになっていきます。

ところが、実はラモンの父親はプロの泥棒。盗みの天才であるカルリートスは、ラモンと組んで大物に手を出すようになりますが、人を殺すことにも全く躊躇しないカルリートスと金儲けが目的のラモンの間には次第に亀裂が生まれ――

 

『オール・アバウト・マイ・マザー』『バッド・エデュケーション』などの監督で知られるペドロ・アルモドバルが弟アグスティン・アルモドバルらとプロデュースした作品。

監督はアルゼンチン人のルイス・オルテガ。

 

批判もあるが・・・

ブエノスアイレスで12人以上を殺害した連続殺人事件の犯人である少年がモデルだそうですが、主人公のカルリートスのセクシュアリティーについては製作者の「解釈」の可能性もあります。

こういう映画が出ると必ず出てくる話ですが、この作品で主人公カルリートスがゲイであるという設定になっていることについて「犯罪者をゲイという設定にしたのは、マイノリティーに対する偏見では?」という批判があるようですね。

これに対して監督のルイス・オルテガは、「彼の犯罪とセクシュアリティーは関連がなく、それぞれ彼の持つ一面にすぎない」と答えているようです。実際内容を見る限りLGBTに対する悪意は見て取れないし、そもそも自らLGBTであることを公表しているペドロ・アルモドバルがプロデュースしている作品ですから、監督の言葉を信用してもいいんじゃないでしょうか。

 

個人的には、主人公カルリートスを敢えてゲイに設定したのは、彼が共犯者のラモンを殺害するに至った背景に、複雑な愛憎のせめぎ合いを描き出したかったからではないかと想像しています。この設定があるのとないのとでは、作品の厚みも情感も全く違ってきますから・・・

 

惹かれ合う、堕ちていく

天使のような顔立ちとは裏腹に、まるで息をするように何ら良心の呵責もなく盗みや殺しをやってのけるカルリートスと、金を手に入れるためなら手段を選ばないラモンとその父親。彼らは出会うべくして出会った・・・或る意味この出会いは必然と見ることもできるのかもしれません。

 

ただ、3人は犯罪を通じて出会ったわけではなく、はじまりはあくまでも、カルリートスがラモンに抱いた執着の感情なんですよね。

それはラモンの中に自分と同じ残忍な犯罪者の匂いを嗅ぎ取ったということなのか、それとも、恋愛に似た想いだったのか・・・この作品では、そのあたりのカルリートスの微妙な感情、多分彼の想いを感じ取っているであろうラモンの反応を、じっくりと丹念に描き上げています。

原題が「天使」を意味する"El Ángel"であるにもかかわらず、邦題が『永遠に僕のもの』と、カルリートスの執着をニュアンスとして匂わせる表現に変わっているのも、ここが本作の核心部だと睨んだからではないでしょうか。

 


(宝石店に盗みに入ったカルリートスとラモン)

 

しかし、眼には見えない「気配」としてひめやかに描かれてきたカルリートスとラモンの感情が、突如、と言いたいくらい鮮やかにスクリーン上で露わになる瞬間があります。

それは、2人が深夜盗みに入った宝石店の店内でのシーン。

店内にディスプレイされたあらん限りのジュエリーを興奮気味にかき集めていたラモンは、ショーケースから大ぶりのイヤリングを取り出し、耳に付けてうっとりと鏡を見入っているカルリートスに気づきます。

あきれるかと思いきや、カルリートスに歩み寄ったラモンは彼を見て、

「マリリン・モンローみたいだ」

と嘆息をもらすんですよね。

この言葉で一気に溢れだす耽美なムード。2人の姿も最高に美しくて、その一瞬、2人の間に確かに愛が見えた気がしたのは、何も私だけじゃないでしょう。

ふと我に返れば、巨額の獲物を狙った強盗の最中。

途方もない状況の中で、罪悪感を感じることもなく捕まったらどうなるかを想像することもなく2人だけの世界に浸っている彼らの異様さが際立つ場面でもありますね。

 

そしてまた同時にこのシーンは、一瞬心が重なり合ったように見えたカルリートスとラモンの間に、微妙な温度差が存在することに気づかされるシーンでもあります。

銃を持った自分たち2人の姿を「カストロとゲバラ」と革命の英雄に例えるラモンに、カルリートスが「エビータとペロンだ」(アルゼンチンの独裁者と彼の美しい妻)と言い直すというやりとりはまさにそれ。

カルリートスに惹かれていながら自覚がないラモンにとっては、2人はあくまでも目的を同じくする同士、一方のカルリートスにとっては夫婦。

さまざまな意味で、2人は同じことをしながら少し違う方向を向いていて、それがカルリートスの中でラモンに対する殺意につながっていったんでしょうか。

仲間割れという見方もできるし、別の見方をすれば、黙っていれば距離ができていくばかりのラモンをつなぎとめる手段・・・一体どちらの気持ちが最終的にカルリートスを突き動かしたのか。その謎をときほぐす糸口はクライマックスに用意されています。

 

双子によって際立つ「間接的に向き合う2人」

(カルリートスとガールフレンド。彼女の双子の姉妹をカルリートスはラモンに紹介する)

 

もうひとつ、この作品の中で同性愛ものならではの文脈を作り出しているのが、カルリートスのガールフレンド。

ロングヘアの美少女である彼女には双子の姉妹がいて、2人は驚くほどそっくり。多分一卵性双生児なんでしょう。

カルリートスは彼女の姉妹をラモンに紹介し、ダブルデートを楽しみます。

不思議なことに、カルリートスとラモンがそれぞれ同じ顔の少女を連れているこのシーン、2組の男女というよりも、カルリートスとラモンが「対」の形に浮かび上がってくるんですよね。

これは双子効果なんでしょうか?

 

男同士の同性愛ものでは、お互いを意識している男たちが1人の女性を共有することで間接的な結びつきを保つ、という構図がよくありますが、この作品の場合には、双子が2人で1人の役割をしているように見えます。この変化球、すごくうまい。

カルリートスのラモンに対する気持ちはすでに透けて見えているだけに、直接触れ合うことなく双子を通じてラモンに触れるカルリートの想いが響いてくるようで、切なくもエロチシズムに溢れたシーンです。

 

70年代のブエノスアイレスの不穏な空気

歌や踊りが大好きなカルリートスとラモンを通じて、70年代の南米音楽が楽しめる本作。一方で、急激な経済成長を遂げたブエノスアイレスの郊外にスラム街が並ぶ様子や、金を握らせれば目こぼしがきく汚職まみれの警察なども、70年代のアルゼンチンの様相。

身分証を持っていないと「ゲリラか犯罪者か本物のバカかのどれかしかない」と身柄を拘束され、身内に身分証と金を持って来させない限り身柄を拘束されてしまうのも、ブエノスアイレスにゲリラや犯罪者が溢れていた時代だったからでしょう。

 

不穏な時代背景・・・カルリートスのような美しきモンスターが出現したことも、何か時代と響き合う現象だったようにも思えます。

犯罪や汚職が生活の一部になっているすさんだ社会はカルリートスにとって素晴らしい猟場、警察なんて誰も信用していない社会だということも、カルリートスを覚醒から遠ざけてしまったのかもしれません。

 

日本とはあまりにも違う社会、そして南米映画の映画文法もまた独特で、なかなか共感しにくい部分もある映画ですが、何故か美しい悪魔に惹かれてしまう人間心理を突いた題材選びや、仲間割れの憎悪の裏側に愛を描き、愛憎の起伏によって物語の奥行きを作りだしたセンスには脱帽。

観終わった瞬間から、もう一度観たくなっています。

 

 

備考:上映館36館