『アデル、ブルーは熱い色』 世界はあのひとの色 | シネマの万華鏡

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(ブルーはエマ(レア・セドゥ)の髪の色、アデル(アデル・エグザルコプロス)にとっては世界で唯一の色)

 

カンヌで大絶賛、監督だけでなく主演女優2人もパルムドールを獲得という異例の措置

ちょっと遡って2月のことになりますが、W大学の社会人講座でLBGT問題と十字軍の講義を受講しまして。

学生時代は嫌でしかたなかったのに、しなくてよくなると何故か勉強したくなる・・・ないものねだり?ちょっと違うか。

講義の中で映画と絡む話も1つあって、十字軍の方の先生がリドリー・スコットの『キングダム・オブ・ヘブン』のパンフに解説を書かれたのだとか。

そういうつながりもあって今回この映画観てみたんですが・・・評判悪いわりには凄い傑作じゃないですか! 

ただし劇場版は説明不足で、ディレクターズ・カット版で観ないと良さが分からないという難点はありまして・・・だから不評にならざるをえないんでしょうけど、時間気にして削りすぎとは、もったいないですねえ。

こちらもおいおい記事にしたいと思っています。

 

 

LGBT問題のほうは映画とは関連しない内容でしたが、最近の論点を知ることができたのは有意義でした。

ということで、今日は久しぶりのゲイ映画『アデル、ブルーは熱い色』を。

 

2013年のフランス映画。監督はアブデラティフ・ケシシュ。

カンヌ映画祭で監督のみならず主演女優2人にもパルムドール賞が贈られるという異例の賞賛を浴びた作品です。

教師を夢見る高校生アデル(アデル・エグザルコプロス)は、運命的に出会った青い髪の画家エマ(レア・セドゥ)の知性や独特の雰囲気に魅了され、二人は情熱的に愛し合うようになる。数年後、念願の教師になったアデルは自らをモデルに絵を描くエマと一緒に住み、幸せに満ちあふれた毎日を過ごしていた。しかしエマの作品披露パーティーをきっかけに、二人の気持ちは徐々に擦れ違っていき……。

(シネマトゥデイより引用)

主人公の名前アデルは、主演のアデル・エグザルコプロスからとったものだそうです。

 

原作者の怒り

この映画には原作があり、フランスの漫画家ジュリー・マロの『ブルーは熱い色』(2010年)がそれにあたります。

本作は世界で高い評価を受け、大成功をおさめた一方で、原作者のマロからは「映画はストレート(原文のまま(注))の男の妄想だ」との批判を受けたとか。(エル・オンライン「『アデル、ブルーは熱い色』アデル・エグザルコプロスを直撃」による。)

原作と映画では一体何が違うのか? 気になったので原作も読んでみました。

 

 

あ、なるほど・・・と思ったのは、原作は主人公(原作ではクレモンティーヌ)とエマのレズビアンならではの苦しみを中心に描いていること。

主人公の両親は同性愛に強い嫌悪感を持っており、エマとの関係が知れて父親に勘当されたというくだりは、映画にはありません。

また、そういう環境に育ったせいか、主人公が同性を愛することにまるで犯罪でも犯すような強い罪悪感を持っていたことも、映画ではあまり強調されていない要素です。

逆に映画で二人の間に溝を作るアデルとエマとの価値観の違いは、映画オリジナルのアレンジなんですよね。

原作と比較してみることで、映画版が何をメインに据えたかったのかも、分かってきた気がします。

 

映画版は「共感」からスタート

私がこの映画を観て強く感じたのは、主人公アデルはどこにでもいる女の子だということ

勿論見ての通り、彼女とびっきり可愛いんです。「普通」なのはルックスじゃなくて、彼女はレズビアンだけど、誰でも抱えている恋の悩みを抱え、人生に迷っているという意味で、セクシュアリティこそ違え自分の周囲の人たちと何も違わないと。

 

原作と比較してみて、映画は「性的マイノリティである苦しみ」だけでなく、異性愛者にも共感できるもっと広い意味での「恋愛の苦悩」にテーマを広げているということが分かりました。

だとすればこの作品は、LGBT映画という括りじゃなくて、セクシュアリティにかかわらず恋愛の経験がある人なら誰もが共感できる恋愛映画を目指した作品なのかもしれないですね。

 

原作者にとっては、アデルを一番苦しめた両親の偏見や彼女自身の中にある同性愛への罪悪感をあまり描かず、アデルの一番の理解者だったエマとの間に軋轢を描いている映画のアレンジはたしかに納得がいかないでしょう。その気持ちも分かります。

でも、「共感」がとっかかりになって、セクシュアル・マイノリティへの理解に踏み出せることもあるのでは? そういうアプローチのほうが、少なくとも異性愛者にとっては入りやすいような気がするんです。

個人的には、恋愛映画としてこの映画は好きだし、映画を観たことで原作を手に取る人が増えるという意味では、この映画はセクマイの理解にも貢献していると言えるんじゃないかなと思っています。

 

まるでドキュメンタリーみたいな、等身大のリアル

3時間という長尺の作品ですが、撮影したフィルムはなんと750時間もあるとか! 

その膨大なフィルムの中から選び抜かれた3時間、すごく高密度で贅沢な映像ということですよね。

この裏話を知って納得したのが、この作品の映像の驚くほどの自然さ

まるでドキュメンタリー・フィルムを観ているような錯覚に陥る、学校の授業風景や、放課後の友達とのおしゃべり、家族で囲む食卓、ホームパーティ・・・このシーンは必要なのか?と思うようなぼんやりと日常を映し出したシーンがやけに長尺で入ったりして、とても面白い作りだなと。

 

ところが、その一見冗長なシーンが後になって考えてみると全く無駄じゃない・・・何でもない日常風景のようで、その中にアデルの家族の人生・彼女の孤独・エマへの想いが絶妙なニュアンスで映し込まれていることが分かってきます。

膨大な時間をかけてシーンを選び抜いたからこそ、説明調を極力排しつつこれほどの感情の横溢が表現できたんじゃないでしょうか。

 

 

アデルがノーメイクで髪ボサボサ、服装もどこにでもいる高校生風なのもすごくいい。

それでいて、作り込んだ美しさでは太刀打ちできない輝きを放っているという。

上に挙げたエル・オンラインのインタビューでのおめかししたアデルの写真を見てかなりガッカリしてしまったくらい、すっぴんの彼女は神がかってましたね。

 

エロチシズムよりも愛に打たれるラブシーン

 

原作者の「ストレートの男の妄想」という批判は、一部はラブシーンに対して向けられているのかもしれないな・・・と思うのは、この作品には大胆なラブシーンがいくつもあるから。

アデルと同じレズビアンだったらこの描写には複雑な想いを持つだろうなとは想像できるし、異性愛者の男性がこの作品を観てどう感じるかも私には分かりませんが、少なくとも私は、いやらしさを全然感じなかった! ただただ、求め合うって美しいと思いました。

 

エマと別れた後、どうしても彼女に会いたくなったアデルがエマと再会するシーンも。

ひさしぶりにエマに会い、エマにはすでに新しいパートナーとの生活があることを頭では理解しているのに、エマの手を握って衝動的に口で愛撫してしまうアデル。

アデルの口元をアップで映すあたりなんか、まだ二十歳にもならない女優が演じているとは思えないほどエロチックなんですけど、過激であればあるほど、アデルのエマへの想いが伝わってきて。

アデルの世界には、エマの色であるブルー以外の色はない、エマがいなければ世界は色を失ってしまう

そういう唯一のものを失いたくないという想い、激情・・・観ている側もこみあげるものがあります。

 

実はアデル・エグザルコプロス、この映画にアデルがエマと出会う前のボーイフレンド役で登場しているジェレミー・ラユルトと本作がきっかけで付き合い始めたんだそうですね。

その話を知ってちょっと脱力してしまったくらい、なんだかリアルの彼女と役柄のアデルを混同してしまっていました。そう思わせる力が、この映画にはある気がします。

 

今はまだ、大人への階段の途中

アデルにとって世界で唯一無二の存在だったエマとの恋。

しかしアデルにとってはハッピーエンドとは言えないところで、映画は終わってしまいます。

ラストシーンで、ブルーのワンピースにまだエマへの想いを滲ませつつ、一人足早に去っていくアデルの後ろ姿は、小さくてさびし気。

それでも、向うに見える角を曲がったところには、もしかしたら新たな未来が待っているのかも・・・そう思わせてくれる余韻の滲ませ方が、とても素敵です。

 

余談ですが、アデル・エグザルコプロスの次回作!

これは絶対観たいんです。

レイフ・ファインズ監督の、伝説のバレエ・ダンサー・ヌレエフの伝記映画"The White Crow"。

ヌレエフと聞いたら、観ないわけにはいきません。

レイフ・ファインズは監督だけでなく出演もするらしいですよ。

アメリカでは今年公開だそうですが、日本ではいつ? 今から楽しみです。

 

(どうやらこれがヌレエフみたい)

 

 

 

(注)現在では異性愛者を「ストレート」と呼ぶことは適切ではないとされていますが、元記事は2014年のものなので・・・セクマイ関連の用語・定義はここ数年めまぐるしく変わっていますよね。