大杉漣&二階堂ふみ『蜜のあわれ』 老人と幽霊と赤い金魚 | シネマの万華鏡

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(ポスターは昔の日活ロマンポルノ風の淫靡なイメージですが、危うさもあれどやさしい、大人の童話)

老作家と金魚の淡くせつない恋

春分の日というのに東京は雪! 夕方から出掛ける用があって、億劫でたまらないのですが、仕方がないですね。天気だけは選べません。

出掛ける前に記事を一つ。

 

今年のアカデミー賞を制した『シェイプ・オブ・ウォーター』は『美女と野獣』の向こうを張った「半魚人と微妙な美女」でしたが、そういう意味で言うとこちらも「老作家と金魚」のラブストーリーという、なかなかの変わり種。

原作は室生犀星。人生のほろ苦さを幻想ロマンでふんわりと味わう、大人の童話風・・・こういう作品、好きです。

原作とストーリーは少し違いますが、原作の詩情・湿度の高さが生かされたアレンジになっています。

石川岳龍監督、2016年製作。

 

原作小説『蜜のあはれ』が書かれたのが1959年ですから、この物語の時代もたぶん50年代でしょうか。

小説を書く老作家(大杉漣)の書斎で、ソファに寝そべり『新潮』を読む赤いドレスの少女赤子(あかこ 二階堂ふみ)。

小説家が小説の挿絵用に彼女を描き始めると、「それ、あたいでしょ。おじさま、あたいの取り分は?」と原稿料を巻き上げる赤子。

金をもらったらさっそく買い物に出かけるという赤子に、小説家は甲斐甲斐しく水筒を持たせてやり、「愚連隊がうろついているから、おやつまでには帰るんだよ」と心配そうに見送ります。

彼のスケッチブックには、赤い金魚が一匹。

そう、赤子の正体は金魚。金魚屋のおやじ(永瀬正敏)以外には何故か人間の少女の姿に見える不思議な金魚なんです。

老作家となまいきだけど可愛い金魚の淡い恋の物語。

老作家の元を訪れる幽霊の田村ゆり子(真木よう子)、やはりこの世の人ではないかつての作家仲間・芥川龍之介(高良健吾)との交流も描かれています。

 

逢魔が時の、ふたすじの道

この作品の世界観を端的に表しているのが、犀星の分身でもある老作家が口にする「五時の道」。

五時にはふたすじの道があり、1つは昼間のあかりが残った道のすじ、もう1つは夕方のはじまる道のすじ。夕方のはじまる道のほうは、幽霊の田村ゆり子が帰っていく冥府の道でもあります。

その昔読んだ岩田慶治の本によれば、日本人にとって2つの道の分岐点は神がいる場所なのだとか。分かれ道に地蔵を祀ることが多いのもそのあらわれ。

この作品の中にも2つの道が分かれる場所が登場しますが、そこにはやはり祠があります。

 

赤子やゆり子、30代の若さで自殺した芥川龍之介が自在に現れる老作家の世界は、まさに2つの道の分岐点のような、この世と異界が交錯する場所。

単なるファンタジー世界ではなく、先立った人への懐かしさ、70歳にして死の淵に立ち、この世への未練にまどう老人の心が見せる世界でもあります。

人は死を意識し始めると、ふとこんな異空間に迷い込むことがあるのかもしれませんね。

 

ただ、そういう老いの哀しみが基調にあるにもかかわらず、やさしく、あたたかく、ユーモアに溢れたテイスト。

老いても枯れない情欲を嘆き、刻々と近づいてくる旅立ちの時を恐れながらも、そんな自分の滑稽さ・人間臭さを苦笑しながら楽しんでいるかのような犀星の目線を感じます。

 

老作家と赤子の温度差がせつない

マエガミマミ画 『蜜のあわれ』公式サイト

 

なによりもぎゅうっと心を掴まれるのは、赤子の可愛らしさ。

彼女、自分を「あたい」、作家を「おじさま」と呼んでいる時点でロリコン好みの臭いがプンプンなんですが、その危なっかしいムードを中和してくれるのが、口語ではなく文学調のセリフ。

セリフ自体がファンタジーへの離陸装置、「あたい」「おじさま」の生々しさが大正ロマン風の耽美で幻想的な世界観で浄化されてしまう・・・これは文芸作品ならではのマジックですね。

 

人に愛玩されるために生まれてきた金魚だけに、愛されているという自信に満ち、主人にも生意気な口をきく赤子。

一方で、赤子の言葉には作家へのひたむきな想いが見え隠れしていて、彼女の表向きの小生意気さとのギャップに毎度ガツンとやられます。

ところが作家のほうは、赤子を掌中の珠のように可愛がりながらも、女として見ることはできない・・・ふたりの温度差がまた切なくて。

コケティッシュに見える時もあれば、ザブンと洗い流したように無垢そのものにも見える二階堂ふみの持ち味がぞんぶんに生きる役柄です。

 

人間と金魚、老人と少女

人間と金魚という距離感は、老人と少女の間にある冒しがたい距離にも通じるものが。

金魚の赤子の作家への愛は、裏を返せば老いた作家の若い女性・性愛への飽くなき欲求と表裏一体のものでもあって、死ぬまで尽きることのない男の禁断の願望は、大正ロマン風味で消臭してもやはり匂ってくるところ。

「大人の童話」だけに底のほうに淫靡な空気がけぶっていて、昭和の邦画みたいな湿り気の多さ・・・やっぱり、原作が昭和なだけに。

結局私はこういう昭和風の邦画が好きなんですよね。

 

ひとつ疑問だったのが、原作にはない小説家志望の丸田丸子(韓英恵)を登場させたこと。

作家と丸子の関係は作家と田村ゆり子とのかつての関係(または作家が彼女に抱いていた妄想)のアナロジーなのでしょうが、ゆり子と完全に人物像がかぶっているのが気になったし、作家に生身の恋人がいるのなら、話の前提自体全く違ってくる気がして。

小説を読む前に映画を観た時点で違和感を感じた役でした。

もっとも、丸子との関係を通して暴かれる男の狡さは、赤子をよけいにけなげに見せていたかも。人間くさい演技が冴える大杉漣を際立たせてもいましたね。

 

大杉漣さんのこと

本作で70歳の老作家を演じた大杉漣、先月、70歳を迎えることなく亡くなってしまいましたね。

大杉漣の持ち味はこれから先のほうがむしろ生きた気がするのに・・・残念です。

 

『蜜のあわれ』には70歳の老人役にしては元気ハツラツな濡れ場が(ほんのちょっと)あるんですが、かつてポルノ映画にも多数出演されたとか。

ただ、そういう男臭さムンムンの漣氏や、晩年多かった切れ者管理職的な役柄の彼よりも、ふわっと浮世離れした役柄の時が私は好きでした。

 

あまりに小さい役で申し訳ないほどなのですが、一番好きだった大杉漣は、フジテレビのドラマ『カバチタレ!』(常盤貴子・深津絵里主演 2001年)での「知的な浮浪者」役。

 

 

このドラマは原作の行政書士ものを大きくアレンジした、頑張ってる女の子応援ドラマ。

世の中のど真ん中にいる人ではなく、どちらかというと隅っこにいる人に光を当てた内容でもありましたね。

役名が「知的な浮浪者」と姓名がないことからも明らかなように、大杉漣の役は全くストーリーに絡まず、1話と最終回にほんの一瞬しか登場しないゲスト出演ポジション。

 

とても仲がいいのにお互い口が悪くて口喧嘩ばかりしている常盤貴子と深津絵里が、相変わらず喧嘩を始める第一話のラストシーン。

そこへ通りかかった浮浪者こと大杉漣が、

「あの~・・・君たち、レズ?(注)」

と声をかけます。その時、彼の背負った荷物の中の目覚まし時計が鳴り始め、浮浪者は2人の返事を聞くことなく、

「行ってきます」

と言い残して、いずこへともなく旅立って行くのです。(彼の背中には、家財道具に混じって芥川龍之介全集が。)

ただそれだけの役柄。(最終回は旅から戻ってくるだけです。)

 

たったそれだけだったんですが、役柄の不思議さと相俟って、表情のやさしさがとても印象に残り、その後しばらく大杉漣の出演作を漁った時期がありました。

もっとも、どういうわけかどれも「知的な浮浪者」ほどグッとくるものがなく、ファンにまでは至らなかったんですが・・・

2016年の『シン・ゴジラ』の総理大臣役も、そう言えば・・・というくらいで、あまり印象に残っていません。

でも、『蜜のあわれ』の、煩悩の只中にいながら浮世離れしたところもある老作家役は、あの「知的な浮浪者」役と重なるやさしい存在感があって、ひさしぶりにぐっとくる大杉漣に出会えた気がします。

いくつもの忘れ得ぬシーンを残してくれた役者さんでしたね。

ご冥福をお祈りします。

 

 

(注)現在は「レズ」は差別用語なので、今なら「知的な浮浪者」のセリフであれば「レズビアン」でしょうね。