映画『人生はシネマティック!』で『ダンケルク』を考え直す | シネマの万華鏡

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イギリス人にとっての「ダンケルクの戦い」って?

監督は『ライオット・クラブ』(2014年)のロネ・シェルフィグ。『ライオット・クラブ』は観たんですが、作品がどうのという以前に登場人物たちの行動が生理的にムリすぎて(イギリスのポッシュな坊ちゃま方ってあんなのなの?)、記事にはしていません。

 

本作では『ライオット・クラブ』で主人公のアリステアを演じたサム・クラフリンが出演。

ワタシ的には、ビル・ナイ出演がキャスティングでは一番魅力かな?と思ってたら、ほんのわずかながらジェレミー・アイアンズも出演してました。

ちょっとトクした気分照れ

 

(めちゃくちゃ期待させるポスターだけど、こいつらポッシュすぎた・・・)

 

今回この映画を観たかったのは、9月に公開されたクリストファー・ノーランの『ダンケルク』と同じく、ダンケルクの戦い(1940年)を扱った映画だから。「もうひとつのダンケルク」というキャッチコピーも、『ダンケルク』を観た人への目くばせでしょうか。

 

(凄惨な死と美しい海のコンビネーションは何故か強い残像を残す、のはいいとして、何かが足りない気がしてしまう戦争映画)

 

『ダンケルク』は映像と音に圧倒された映画でしたが、何か戦争映画に必要なものが足りないような、物足りなさを感じる映画でもありました。

表現しているものはそれぞれの映画で違うとしても、愛国心の称揚であれ、反戦であれ、戦争映画には何か凄まじい感情のエネルギーを感じます。それは映画の中から溢れ出てくることもあるし、自分の中で巻き起こることも。

でも、『ダンケルク』は一貫してクールだった・・・そのことに終始違和感を感じながら観ていました。

宣伝では、臨場感とサスペンシャルな構成が目玉だということになっているんですが、一体何故、史実の戦争をそんなふうに戦争観抜きで撮る必要があるのか? その意図が私には全く理解できなかったんです。

『ダンケルク』と前後して『戦争のはらわた』――私に言わせれば、戦争に対する正負入り混じった感情を映像にぶちまけた映画――を観たのが余計に混乱の元だったのかもしれませんが・・・

 

そんなわけで、イギリス人にとってのダンケルクの戦いって何なんだろう?と。

それが知りたくて、この映画を楽しみにしてました。

 

舞台は1940年、第二次世界大戦中のイギリス。

ドイツ軍の猛攻に押され気味のイギリス軍は、フランスのダンケルクでドイツ軍の包囲から英軍兵士を救出した、双子姉妹の美談を戦意高揚のプロパガンダ映画にしたてることに。

脚本家として抜擢されたカトリン・コール(ジェマ・アータートン)は執筆経験もなくド素人。

しかし、同僚のトム・バックリー(サム・クラフリン)と協力し、軍の命令や俳優のワガママにこたえて脚本を書き替えながらも、映画を完成させていきます。

その過程で、トムはカトリンに惹かれていきますが、カトリンには画家の内縁の夫がいて――

 

そもそも映画技術は戦争によって進化してきたという事実

映画『ダンケルク』を観た人はご存知だと思いますが、ダンケルクの戦いは、イギリス軍にとって国民の戦意高揚にうってつけの救出劇でした。

ナチスドイツの猛攻でフランスはダンケルクへと追い込まれた英仏軍、陸海空からの攻撃で次々に命を落としていく兵士たちを、軍用船が不足する中で、船を所有する民間人の協力を仰ぎ、民間船700隻がドーバー海峡を超えてフランスに救出に向かうという美談。

『人生はシネマティック!』の劇中劇で救出の英雄に祭り上げられた双子姉妹は、実はダンケルクに向かう途中で船が故障し目的地には辿り着かなかったにもかかわらず、民間の若い女性が兵士を救ったという話題性ゆえに、美談が独り歩きしていきます。

 

この劇中映画には、アメリカのヨーロッパ戦線への参戦を促すためのプロパガンダとして利用したいというイギリス軍部の思惑も絡んでいます。

アメリカ人の共感を得るには、アメリカ人ヒーローを仕立てよ、というミッションが軍部から製作チームに。

「ダンケルクにアメリカ人なんている?」

「牧師・・・記者?」

「記者!いいね」

という具合に、ミッションがシナリオに組み込まれていくんですよね。

この辺はリアリティーがあって面白いし、「政府の思惑によって話が脚色されていく」現実がよく分かります。

 

劇中劇を観る観客の反応も描かれていて、ドイツ軍の戦闘機に

「ヒトラーめ!何様のつもり?」

と悪態をつく女性の言葉に共感したり、命がけの救援に感動して涙を流す人々の姿も。

当時、映画がいかに大衆のマインド・コントロールに使われていたか・・・そもそも映画技術の発展は戦争と深く関係していることも含めて、映画の力、その力が権力に利用されてきたことを改めて考えさせられるシーンが多々あります。

 

実はメイン・テーマは女性の社会進出

ただ、この映画は主人公たちがめいっぱい誇張と脚色の入ったプロパガンダ映画を作っていることにフォーカスを当てることなく、そこはさらっと流しています。

この感覚はイギリス映画らしいと言っていいのかな。(敗戦国の日本の映画なら、主人公が無自覚にプロパガンダに協力するなんてことはありえないですよね。)

この映画がメイン・テーマに据えているのは、プロパガンダ映画批判ではなく、若い男性は出征して人手不足の状況の中での女性の社会進出のほうなんです。


もともとは、男に尽くし利用されるタイプの女だったカトリン。

ところが、戦争による人手不足で物書きの才能を開花させるチャンスを得、思いがけず新しい人生を歩み始める、しかもそれが政府のプロパガンダ映画を作るという恐ろしく国策の中枢に絡む仕事で、彼女は大臣が同席する会議にまで出席!

カトリンのめくるめく運命の急転回にワクワクさせられるし、撮影現場のシーンにはやっぱり心が躍ります。

一方で、カトリンのあまりの男運の悪さにもらい泣きしてしまうシーンも・・・

と言っても、戦争と男運の悪さこそが、彼女を社会に押し出し、才能を発揮する機会をもたらしたわけで、その辺がまたこの作品にシニカルな色彩を添えているわけなんですが。

それにしても戦争が女性の社会進出をもたらしたとは・・・戦争の意外な側面を見せられた気がしました。

 

ビル・ナイはベテラン俳優役。

この役は素でいけたんじゃない?と思うくらい、いつもどおりの飄々とした持ち味で、作品の癒し要素になっています。

 

クリストファー・ノーランは「ダンケルクの戦い」をどう見たか?

『ダンケルク』を観ても、クリストファー・ノーランがダンケルクの戦いから何を描きたかったのかは伝わってきませんでした。

でも、2カ月経って、そして『人生はシネマティック!』を観て、やっぱりクリストファー・ノーランのダンケルク観は、下の発言に尽きる気がします。

このダンケルク観は、『人生はシネマティック!』に描かれているイギリス人のダンケルク観にしっかり重なり合っていますし。

「私は常にダンケルクの物語に魅了されてきた。イギリスの話で、イギリス人はその話とともに成長し、骨まで染み込んでいる。神話のように文化の一部になっているんだ。我々は逆境にあるグループや公共のヒロイズムや敵の優勢について語るとき、“ダンケルク・スピリット”のことを話す」と、長年魅了されてきたテーマだったと明かす。さらに、「この物語は近代映画で語られたことがない。そこがとても面白かった。映画監督は常に大衆文化のギャップを探しているからね。いまだに語られず、すでに語られているべきものを探す。ダンケルクの物語は人類史上最高の物語のひとつだ。この物語は降伏でも全滅でもない終わり方をしたことで、人類史上最高の物語のひとつとなった。素晴らしいサスペンスだよ」と満足げに語った。

http://realsound.jp/movie/2017/07/post-94190.html

 

『ダンケルク』が描いたのは、イギリス人が語り継いできた愛国の物語なんだということ。

敵の姿を全く描かず、敵に感情移入させるシーンが全くないことも、それを裏付けています。

そういう映画を作っちゃいけないわけではないし、むしろ、アメリカ映画にはそのテの映画がたくさんありますよね。

でも、私が個人的に気持ち悪いのは、この映画の宣伝に、まるで政治色がないかのように臨場感とサスペンス要素だけが強調されていること。

この映画は全然客観的じゃないし、むしろ完全に片面から戦争を見た映画なのに・・・

しかも、上の発言を読む限り、ノーラン自身はっきりと愛国映画だと言ってる気がするんですけどね。

なんとなく、スッキリしない。やっぱり『ダンケルク』はスッキリしない映画なんでしょうか。

 

それともう一つ、この映画を「人類史上最高の物語」と言うクリストファー・ノーランが、この映画を「片面から戦争を観た映画」だと気づいていないのだとしたら、ちょっとガッカリだな。

でも、気づいてたとしたら多分、「人類史上最高の物語」とは呼ばないでしょうね。

 

ただ、ものすごく矛盾しているかもしれないですが、あのスピットファイアから見た群青の海が眼に焼き付いて離れません。

あの海をもう一度観たい、というのもまた、偽らざる気持ちです。

キネカ大森で、まだやってるんですね。