フランソワ・オゾン監督『婚約者の友人』 「戦後」という喪の時代 | シネマの万華鏡

シネマの万華鏡

映画記事は基本的にネタバレしていますので閲覧の際はご注意ください。

 

フランソワ・オゾンの最新作

今週は東京国際映画祭も始まるし、話題作の公開も続々!映画ブログが賑わいそうですね。

こちらも楽しみにしていたフランソワ・オゾンの新作。オゾン監督の新作は、日本ではおととし公開された『彼は秘密の女ともだち』以来です。

またまた謎めいた「友達」の登場を匂わせるタイトルで、今度は一体どんな友達なのか、気になっていた方も多いのでは?

ただ、原題は主人公の婚約者の名前“FRANTZ”(フランツ)なんですよね・・・やはり

こちらがこの作品の本来のニュアンスなのかな?とは、実際に鑑賞して感じたところです。

 

舞台は1919年、第一次世界大戦が終わったばかりのドイツの田舎町。

戦争で婚約者のフランツをなくしたアンナ(パウラ・ベーア)は、身寄りもなく、フランツの両親の下で暮らしています。

美しいアンナには町の顔役の男から結婚の申し込みもありますが、「フランツを忘れたくない」と頑なに求婚を断るアンナ。

そんなある日、亡きフランツのフランス留学時代の友人だったという美青年アドリアン(ピエール・ニネ)がフランスから訪ねて来て――――

 

『生きるべきか死ぬべきか』(1942年)などで知られるドイツ出身のエルンスト・ルビッチが監督した『私の殺した男』(1932年)にインスパイアされた作品とか。

そしてまた、『私の殺した男』は、フランスの劇作家モーリス・ロスタンの戯曲を映画化したものだそうです。

 

私の殺した男 [DVD] 私の殺した男 [DVD]
5,040円
Amazon

 

つまり、フランス人の書いた戯曲をドイツ人が映画化し、さらにそれを下敷きにフランス人がリメイク・・・という、独仏の間のキャッチボールのような形で、リメイクが重ねられた作品なんですね。

そういう経緯を見ても、ドイツ人・フランス人どちらサイドからも共感された作品だということがよく分かります。

 

戦争が残した喪失感

第一次世界大戦は、化学兵器や機関銃など大量殺戮兵器の進化・戦争の長期化によって、過去の戦争とは比較にならないほどの死者が出た戦争です。ドイツは第二次世界大戦で一層壊滅的な打撃を受けましたが、フランスでは第一次世界大戦のほうがはるかに多くの戦没者が出ています。

当時、アンナやフランツの両親のように、かけがえのない存在を失った人はドイツにもフランスにも溢れていたでしょうし、アンナに言い寄ってくるのが彼女に不釣り合いな年配の男性なのも、若い男性の多くは戦死してしまったせいでしょう。

 

戦争は終わったと言っても、また20年後には第二次世界大戦が始まっていて、少し長い休戦のような状況だった時代。

家族を敵国の兵士に殺された怒りと悲しみは、戦争が終わってもおいそれとは消えず、フランス人はドイツ人に、ドイツ人はフランス人に強い憎しみを抱いています。

大切な人を失ったというだけでなく、現実に戦場を経験した兵士たちは、人を殺したという一生消えない罪の意識を背負い、人知れず苦しみ続けてもいます。

ナショナリズムの火も熾火のようにくすぶっていて、小さなきっかけで大きな炎に変わりそう・・・喪と憎悪と罪の意識と不穏な排他指向が蔓延する大戦後の空気が、スクリーンに色濃く描き出されていきます。

 

時代に漂う喪失感と虚しさを映し出す

そんな、戦争への怒りと喪失感のただ中に、フランツの墓参りにフランスからはるばる訪れた青年・アドリアンの存在は、いかにもいわくありげです。

婚約者を失い哀しみに暮れる若く美しい女性の前に、その婚約者の友人と名乗る洗練された美青年が現れる。

誰もが、そうだ、2人が結婚すればいい、戦争の傷痕は癒えないにしても、新しい一歩が踏み出せるのでは? と思うでしょう。

でも、そこはフランス映画、しかもフランソワ・オゾン・・・そう簡単に予定調和に向かうかどうか?

 

アドリアンとフランツの関係は、この作品のサスペンス要素になっていますが、最後に全てが明らかになったと言えるのかどうかは、よく分かりません。

というのは、アドリアンはいくつかの嘘をついていたから・・・そしてアンナも、フランツの両親に多くの嘘をつきます。辛い現実の中で生きるフランツの両親を少しでも傷つけまいとして・・・

この物語は、さまざまな嘘で彩られているんです。

そんな中で、アドリアンが最後に語ったフランツとの関係が真実だとは言い切れない気がします。

 

フランツのことにしても、アンナや両親はどこまで彼の素顔を知っていたんでしょうか。

アンナがアドリアンに会うためにフランスへ行った時、フランツがフランス逗留中に滞在していたホテルに宿泊しますが、そこは淫売宿のようないかがわしい雰囲気のホテル。

アンナの知らなかったフランツの一面があることに気づかされるシーンです。

詩や音楽を愛したフランツの、お気に入りの詩人がヴェルレーヌだというのも意味深に思えます。

 

物語は意外な方向性へと漂っていき、ストーリー自体は綺麗に回収しきれてないような不透明感が最後まで拭いきれません。

ただ、終始まとわりつくような虚しさが画面から漂ってきて、どこまでも情感をゆさぶられるドラマ。

真実の虚しさ、嘘の虚しさ、生きる虚しさ・・・これもまた、戦争の喪失感と切り離せない、この時代の空気なんでしょうか。

その虚しさを、フランツとアドリアンがルーブルで観たという絵・エドゥアール・マネ作『自殺』に集約させ、『自殺』の陰鬱な色彩とともに重い余韻を残すあたりはとてもこなれていますね。

 

(マネ作『自殺』 この絵は19世紀の作品ですが、戦争がアドリアンやアンナに残した虚しさにつながるものがある?)

 

ひとつの結末に向かって収束していくく物語というよりは、何か時代の中に漂っていた人々の想いやそれが作りだす時代の色を写しとろうとしたかのようなあやふやなバランス感がなんともフランス映画的です。

 

モノクロ映像が生み出す行間

 

本作は一部を除いてモノクロ映像です。

モノクロフィルムって、色彩が抑制されているだけに文学のような行間があって、何かカラーフィルムよりもイマジネーションを掻き立ててくれる気がします。

この物語の持つ喪の雰囲気だったり、時代の隔たりだったりといったものが、モノクロフィルムを使うことで絶妙に表現されている上、ピエール・ニネの濃い色の髪が、モノクロ映像の中に強いアクセントを創り出していて、彼の翳りがとても映えるんです。

ドイツ人というよりはフランス人に見えるアンナ役のパウラ・ベーア(でも、ドイツ生まれだそうで)の可憐さも、モノクロフィルムの中ではクラシカルな魅力が付加されて、一層輝いて見えます。

 

(アンナ役のパウラ・ベーア)

 

前作の『彼は秘密の女ともだち』では、ロマン・デュリス演じるヴィルジニアのファッションや、彼らが暮らす家のスタイリッシュなインテリアに目を奪われましたが、今回は一転してミニマリズムで勝負。

むしろ映像はこれまでの作品以上に美しく感じました。

 

上に書いたマネの『自殺』のほか、ショパンのノクターン(第20番 嬰ハ短調)とヴェルレーヌの『秋の詩』が効果的に使われていて、それぞれの作品が余韻を膨らませてくれます。

わずかに配された色のあるシーンは、アンナとアドリアンが戦争前の無垢な心を取り戻した瞬間でしょうか。

アドリアンとアンナが美しいだけに甘い展開を期待してしまいましたが、恋を楽しむには、2人は戦争であまりに大きなものを失ったのかも――――