映画『関ヶ原』余談:出番が少なかった加藤清正をリベンジで熱く語る! | シネマの万華鏡

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映画『関ヶ原』が好調らしいですね。週末興行収入ランキングは2週連続首位、興収11億円を超えたとか。(映画.comニュースより)

個人的にはいろいろ文句をつけてしまった『関ヶ原』。でも、こういう本格歴史映画がヒットしてくれるのは、私にとっても嬉しいことです。

どんどん新作を作って、世界に通用する本格時代劇を復活させてほしい!

『七人の侍』を超える作品を待望しています。

 

私は、関ヶ原合戦というのは、壮大な群像劇として眺めた時に面白さが浮かび上がって来る戦いだと思っています。

家康と三成だけじゃなく、参戦したあらゆる武将たちの群像劇。

一人でも多く味方に抱き込もうとする家康と三成の調略合戦、両者の力をはかりながら身の振り方を思案する武将たちそれぞれの判断、想い、迷い・・・それこそが、私にとっては関ケ原合戦の醍醐味。

勿論、それを表現するには2時間半という時間では、全く足りません。ただのないものねだりだということはよく分かっているんですが、個人の好みとして、「これじゃない」という思いが強くて、ちょっと辛口になりすぎたかな?と反省しています。

それと、これもまた勝手な話ですが、私の好きな加藤清正が軽率なだけの小者に描かれていたことも、作品に不満だった理由の1つなんです。

ただでさえ尺が足りないのに、加藤清正まで丁寧に描けるわけがない!!とおっしゃる方、全くそのとおりです。

でもね、出身が九州ということもあって加藤清正には思い入れがあるんですよね。。。誰だって同じだけれど、調べてみるといろんな面があるんです。

 

(熊本名物の朝鮮飴の箱って、国際問題におおらかな時代には清正の虎退治を描いたものもあった。http://daimeisan-k.jp/sweets08/

 

実はブロ友さんの中に「清正が残念だった」と書かれた方がいらっしゃったということもあって、思い切って、昔別の場所に書いた清正の記事を軽くまとめ直して転載してみました。

3回に分けて書いたものを1本につないだため、ちょっとつながりがいびつかもしれません。

一応軍記物(史料的価値が低いものではありますが)をベースにして書いたものですので、よろしかったら読んでいただけたら嬉しいです。(軍記物ベースですし、人物伝的な読み物として書いたものですので、見てきたような話になっているのはおおめに見てくださいね。)

 

個人的には、名古屋城の天下普請や、家康が大阪の陣を決意したきっかけになったと言われる家康と秀頼との対面の際のエピソードが、とても気に入っています。

『愛すべき英雄・加藤清正』

後世における毀誉褒貶

(月岡芳年の加藤清正。この絵では分からないが口が大きかったと伝えられ、近藤勇の拳骨を口に入れる芸は加藤清正の逸話にあやかったものらしい。猿を飼っていたとも伝えられる。)

 

「加藤清正」と聞いただけで、胸が熱くなるという人は、案外少なくないと思う。不詳私も、その1人だ。
没後400年あまり。
時代劇では正直モブキャラ扱いだし、清正を主人公に据えた文学作品も殆どない。そういう意味で、信長や秀吉、謙信や信玄とは、情報量に雲泥の差がある。
にも拘わらず、時代を超えて熱いファンに支持され続けているのだから、ただ者じゃない。
武人としての勇猛さもさることながら、或る種のカリスマ性を持った人だと思う。清正に関しては、多くのエピソードが残っているが、そのどれをとっても、人間臭い魅力に溢れている。
欠点とされる頑なで融通の利かない部分も、私に言わせれば加藤清正の最大の魅力の一つだ。融通のきく加藤清正なんて、もはや別人にすぎない。

しかし、残念なことに、今の時代には好きな武将として加藤清正の名前を挙げることが、少しばかり憚られる雰囲気がある。
ひとつには、加藤清正は熱心な日蓮宗信徒であり、宗教色が強いせいもあるだろう。
だが最大の原因は、清正は秀吉による朝鮮出兵の際に、最も目立った活躍をした人物だということ。昭和史ともかぶるこの外征を語る時、真っ先に名前が出てくるのが、加藤清正だ。秀吉の命で多くの武将が参陣したが、現地で「鬼上官」とあだ名され、恐れられたのは、清正だけである。
その活躍が戦前の教科書ではもてはやされた分、戦後は矮小化されることになった。

ただ、加藤清正のために弁明するとすれば、彼は何も、昭和の対外戦争を肯定するためだけに無理やり歴史の中から掘り起こされたわけではない。
江戸時代にはすでに英雄的な人気があった。庶民の間では、清正の虎退治は芝居の人気演目の一つだったし、将軍綱吉・家宣に仕えた儒学者の荻生徂徠も、妙に清正が好きだったらしく、
「近世にて人の手本となるべきは、加藤清正を超えたるはなし」
と、清正を絶賛している。
特に、地元出身ではないにもかかわらず、領地の肥後では絶大な人気を誇った。熊本の人にとって加藤清正は、今も変わらず英雄だ。肥後弁で「武者んよか」、つまりカッコいい武将の代名詞が、加藤清正なのである。
それは、清正が外征の英雄だからではなく(というのは、朝鮮の役は日本にとっても何の益ももたらさなかったからだ)、天下の名城・熊本城を造った石垣の名手であり、川の氾濫に悩まされた肥後において治水工事に尽力し農業生産力向上に努めた名君であり、裏表のない、豪放磊落な人柄が肥後人の気風に合ったから・・・ではないだろうか。
少なくとも、朝鮮の役が清正を英雄にしたわけでは決してない。

 

朝鮮出兵での加藤清正

 

しかし、加藤清正を語ろうとすると、どうしても朝鮮出兵の話題は避けて通れない。加藤清正の49年の生涯のうち断続的にとは言え7年がこの戦争に費やされたことを思えば、やはり清正の人物像を構成する重要な要素であることは間違いないからだ。
肉体的にも精神的にも、そして経済的にも相当な負担になったに違いない朝鮮の役だが、皆が嫌がったこの戦いでも、清正だけは張り切っていた。
加藤清正は、そういう人だ。
あるじ秀吉の命令にはひたすら盲従した。

それが清正の器の限界・・・そう言われればその通りなのだが、表面は取り繕って裏で舌を出すようなまやかしを好まない清々しさは、同時に清正の美点でもある。
ただ、事がまさしく異国に対する侵略行為だっただけに、朝鮮の役に関しては、清正のこの性格が、(特に後世の人間の視点に立てば)完全に裏目に出たわけだ。

もう一つ、朝鮮の役に関して清正が評価されにくいのは、講和をめぐる小西行長とのスタンスの相違にある。
隣国の領主同士でありながら犬猿の仲だった清正と小西行長だが、不幸にも二人揃って朝鮮の役の中心的役割を担うことになる。
現地でも二人は何かにつけて争うが、特に、ひそかに明・朝鮮との講和を画策していた行長に対して、ひたすら秀吉の命に忠実であろうとする清正は、行長の和平工作を妨害していたように言われる。
皆が厭戦的な中で清正は遮二無二功名を積み上げた、小西行長がひそかに和睦を画策していたにも拘わらず、それを妨害した・・・となれば、まるで加藤清正は戦を推進していたかのように聞こえるのだが、実際のところ、清正は和睦自体に反対だったのだろうか?

この辺りの清正の真意は分かっていないが、行長が進めようとしていた和睦の実態を知れば、決して清正は戦争の終結それ自体を拒んでいたとは限らないように思えてくる。
というのは、行長がお膳立てした講和とは、秀吉に対しては明が降伏したように見せかけ、一方明に対しては捏造した秀吉の降伏状を送るという安直極まりない内容のものだったからだ。
天下人・秀吉も、随分愚弄されたものである。
勿論、老いたとはいえあの秀吉がそんな子供騙しに引っかかるわけもなく、使者が異国語で読み上げた内容が日本を明の属国扱いするものであることは、すぐに露見した。当然のことながら秀吉は激怒し、これが原因で第二次朝鮮征伐に至ることになる。
それにしても、豊臣政権の重要ポストにあった小西行長が、売国にも等しい行為に及んだことには驚かされる。たとえ講和を最優先に考えていたとしても、あまりにもその場しのぎの危険な行為だ。
清正が小西の妨害をしたのも、和睦自体に反対だったのではなく、小西のやり方に納得しかねたためだった可能性は十分にあるのではないだろうか。
加えて、この戦争には現地総大将がいなかったことも、指揮命令系統が乱れ、意思統一が図られなかった一因だったように思う。

 

小西行長VS加藤清正

(小西行長)

 

もっとも、何はさておき、清正が小西行長をとにかく嫌っていたことは確かだ。
「清正記」の伝えるところでは、こんなつまらないケンカもしていた。
「どちらが攻撃予定地までの近道を行くか」で、あわや斬り合いに発展しそうになった・・・という話である。
道は二つ、どちらがどちらの道を行くかはクジで決めようという行長の意見を却下して、清正は自分が近道を行くと言い張った。
ちなみに近道のほうが川を渡らねばならない難路だったのだが、彼としてはとにかく手柄への近道を行きたかったらしい。
「勝手な」
と小西が怒ると、「清正記」によれば「清正あざ笑ひて」、
「天草ニテ一揆ニタテラレシコトハ今ニ覚エズヤ」
と、思い切り行長を煽った。
天草で一揆を起こされた時、援軍を出して制圧してやったのを忘れたか。(オレの助けを借りねば一揆一つ収められないおまえが、先に行ったところで何になる)
というのである。行長は激怒して刀に手をかけたが、清正は余裕でさらに火に油を注いだ。
「これはおかしき様子かな。それだけの気骨をお持ちなら、はて、何ゆえ天草の折には見せざるかのう」
清正と同じ隊の鍋島直茂が必死で仲裁したためどうにかその場は収まったようだが、こんな二人に付き合わされた鍋島直茂がひたすら気の毒でならない。
まあ、こういうガキ大将のような一面も、清正の魅力のひとつではあるのだが・・・

 

絶頂期の石田三成を敵に回す

一方、何かにつけて清正のイジメと妨害に遭っていた行長は、当然ながら清正に一矢報いてやろうと画策する。
清正にとって不利だったのは、行長が当時秀吉に絶大な信頼を得ていた石田三成と入魂だったことだ。清正はと言えば、対行長同様、あるいはそれ以上に三成とは犬猿の仲だった。
1596年、行長は三成経由で清正の讒言を秀吉の耳に入れ、秀吉の勘気を煽ることに成功する。すぐに帰国して切腹せよとの秀吉の命で呼び戻された清正は、身の振り方を相談すべく、豊臣家奉行の中では一番親交のある増田長盛を訪ねた。
しかし、長盛のアドバイスに、清正はおとなしく従うどころか、逆ギレしてしまう。
「治部少輔殿(石田三成)に頭を下げさえすれば、すぐにも殿下にとりなしができるのじゃが」
沸点の低い清正のこと、三成の名前を聞いただけで、もうカーッと頭に血がのぼってしまっていた。
「我らが朝鮮で必死の働きをしている間、戦さにも出ず讒言で人を陥れることばかり画策しているような汚い奴ばらと仲直りなどしてどうする! たとえこのまま切腹申し付けられようとも、それだけはお断り申す!」
と言い放った上、長盛に対しても、
「貴殿を見損ないもうした! もう金輪際お付き合いは無用にござるっ!」
と啖呵を切って、席を蹴って帰ったらしい。
加藤清正、絶対絶命。
さすがの加藤清正も、肩を怒らせ大股で増田邸を飛び出したものの、遠ざかるにつれ、
(やはり短気はソン気かのう・・・トホホ)
という後悔の念に襲われたかもしれない。
しかし、何度時間を巻き戻してこの場面をやり直したとしても、清正の場合は、多分同じ結果になっただろう。

この後、実にタイミングよく伏見の大地震があり、すわ太閤殿下をお助けせねばと一番乗りで伏見城に駆け付けたことが秀吉を喜ばせて、すっかり勘気は解けたわけだが、地震がなければ加藤清正は一体どうなっていたのか・・・

この逸話、あまりにタイミングの良すぎる話でもあり、後世の創作の可能性もあるが、結局最後は秀吉と清正の長年の信頼関係が清正を救ったこと、石田三成とはこの頃から既に険悪な関係だったことは、恐らく事実だったのではないだろうか。

こうして見ると、秀吉存命中の清正は、どこまでも天下人・秀吉の忠実な家臣である。
この時代の清正も非常に味があって面白くはあるものの、秀吉の威光に寄り添っていたからこそ許された短慮・傲慢があったことも否めない。
加藤清正という人が本当の意味で輝きを増すのは、秀吉の死後ではないか・・・と、個人的には思っているのだが、どうだろうか。

 

加藤清正にとっての「関ヶ原」

よく知られている通り、清正は関ヶ原では東軍の家康側に付いた。
といっても、家康の元に馳せ参じたわけではない。
彼は肥後にいた。多くの大名が西軍に加わり手薄になった九州で、黒田如水と共に九州制覇に向けて動いていたのである。
九州を手中にした上は、仮に西軍が勝ったとしても、堂々迎え撃てばいいという肚だったのかもしれない。
予期に反して関ヶ原の勝敗があっという間に決したため、夢は脆くも崩れ去ったが、如水と清正は、争いの渦中から遠く離れた九州という地の利を活かして、独自の勢力拡大をもくろんでいた節がある。

ところで、関ヶ原で東軍に付いたことを指して、清正を裏切り者と言う人がいる。
それはどうだろうか。
関ヶ原の合戦の総大将は、東軍は家康、西軍は毛利輝元で、西軍の実質的な指揮は石田三成が執っていた。
誤解されることが多いが、この戦は徳川VS豊臣の戦いではないし、双方とも、「豊臣家のために奸臣を討伐する」という名目を掲げていた。
秀頼は大坂城で毛利輝元が保護していたものの、秀頼による家康討伐の文書は一切出されていない。(出されていたとしても、7歳の秀頼自身が判断したものではありえない)
「しかし、家康は関ヶ原の後、豊臣家の領地を3分の1に削り、その上3年後には自らが将軍職に就いて、着々と天下簒奪を進めていったじゃないか。その家康に味方した加藤清正や福島正則は紛れもなく裏切り者だ」
という反論もあるだろうが、それは後の歴史を全て知っている後世の人の見方にすぎない。
第一、清正を裏切り者というには、三成が忠臣であることが大前提となっているが、それも大いなる先入観の賜物だ。果たして西軍が勝利したとして、三成が豊臣家を私物化しなかったという確証がどこにあるのか。
少なくとも清正や正則は、自分たちのような忠臣(彼らの主観では当然そうだろう)を排除しようとする三成こそ奸臣、と見ていただろうし、この戦さには奸臣三成(や小西行長)を秀頼の側から除くという大義名分があったのではないだろうか。

ただ、歴史の流れを見通せなかったことについて、彼らを浅薄とする批判については、敢えて否定はしない。
自分自身も含めて、多くの人は、先を見通せない浅薄な凡人だと思うから・・・

 

秀吉から見た福島正則と加藤清正は・・・

少し話を秀吉の生前に戻す。

年齢も近く、ともに幼少の頃から秀吉に仕えたとされる加藤清正と福島正則は、とかくワンセットにまとめられる傾向にあるが、秀吉からは、彼の従弟にあたる正則のほうが、はっきりと厚遇されていた。
清正も肥後半国の領主という大身ではあったものの、当時肥後は「治め難き国」とされていた辺境の地であるのに対し、正則は1595年、秀次の遺領尾張国清洲24万石をもらった。さらに、秀吉は死の直前に正則に羽柴姓も与えている。
正則と清正の待遇の差は、勿論秀吉にとって血のつながった身内が可愛かったからなのだろうが、果たしてそれだけだろうか。
清正が肥後を与えられたのは、智勇に優れ、武将としても旬だった清正(当時30歳)を朝鮮の役で重用する目的だったと伝えられているが、実際のところ、秀吉の中には清正の力を恐れる気持ちがあり、彼を中央から遠ざけた・・・という一面もあったのかもしれない。

戦さはできるが、酒癖が悪くどこか軽さが前に出がちな福島正則に対して、清正は戦さ上手は勿論のこと、土木技術にも明るかったし、何より、後述するように派手なパフォーマンスが上手く、人心掌握術にも長けていた。
小男で痩せ肉の秀吉と違い、大柄で武者姿がよく似合ったという。
つまり、清正はカリスマたる条件を備えていた・・・と言える。
清正という男は、老いを感じ始めた秀吉にとって、「愛い奴」であると同時に脅威でもあった・・・その可能性はありえる。
秀吉は、「我に異ならぬ才を持つのは三成のみ」とか、「儂が死んだら天下を取るのはかの跛殿(黒田如水)」とか言っているが、本当にそう思っていたのかどうかは非常に疑問だ。この辺は、いずれ別の機会に掘り下げてみたい。

 

天下普請を祭りに仕立てて盛り上げた加藤清正の胸中

清正のパフォーマンスの才については、こんな話が残っている。
家康が江戸に幕府を開いて以降、江戸城、名古屋城など徳川家の城が次々に築城され、諸大名は普請の手伝い、いわゆる「天下普請」に駆り出された。
経済的負担の大きい天下普請を、誰もが嫌がった。名古屋城普請の際など、福島正則が清正に、
「江戸や駿府はまだしも、ここは妾の子の城ではないか。それにまでコキ使われたのではたまらない」
とこぼしたという話が残っている。が、この時清正は笑って、
「滅多なことを言うな。築城がそんなに嫌なら国元に帰って謀反の支度をしろ。」
とたしなめたという。
当の清正は、まるで楽しんでいるかのように持ち場をこなした。この名古屋城の普請の際には、巨石運びを華やかなイベントに仕立て上げ、近隣の住民たちを大いに楽しませたことが、「続撰清正記」に綴られている。

普通なら数千人の人足が淡々と引き綱で巨石を曳いていくだけの作業だが、清正はその巨石を毛氈で包み、華麗な衣装で着飾った美しい稚児小姓たちとともに自らも石の上に立って、大音声で木やり唄を歌いながら、まるで祭りのように行進させたという。
この様子をひと目観ようと、沿道には人だかりができ、その人出を見込んで酒や食べ物を売る出店が立ち並んだ。清正は、その出店のものを全て言い値で買い取って、沿道の人々に投げて取らせ、誰彼区別なく酒は飲み放題にふるまわせたので、人々は浮かれに浮かれて皆一緒になって綱を曳いたとか・・・

この演出、いかにも秀吉のパフォーマンスを見て育った清正らしい。
ここぞと決めた時は派手に華やかにやる主義の加藤清正のこと、しかも尾張名古屋(中村)は彼の故郷でもあり、故郷に錦を飾るという思いも、或いは清正の中にはあったのかもしれない。
ただ、福島正則がこぼしたのと同様の不満は、清正の中にも必ずあったはずだ。世が世なら・・・という口惜しさも、心の奥底ではくすぶり続けていただろう。
その口惜しさ、やるせなさを、思い切り華やかな催しで吹き飛ばしたい・・・そんな思いがあったのだとしたら、これは加藤清正の、徳川の天下に対するささやかな抵抗だったとも受け取れる。

戦場で誰よりも勇ましく戦いながら、これといった負傷をしたことがないという軍神のような加藤清正もさることながら、逆風の時代を、思い切り明るく前向きに生き抜こうとした晩年の清正にこそ、時代を超えて日本人に愛される魅力があるのではないか・・・天下普請の真っただ中、巨石の上に仁王立ちになり、派手な軍扇をかざしながら曳き綱の音頭をとる清正の雄姿を思い浮かべるにつけ、そんな思いを強くさせられる。

 

最後の晴れ舞台

1611年春、家康が突如、「秀頼に会いたい」と言い出した。丁度25年前、家康は大坂城で秀吉に謁見させられているが、今回は家康の城・二条城まで秀頼に会いに来いというのである。
当初淀殿は「こちらが主筋なのに出向けとは何事か」と反発したが、説得を依頼された清正らが必死に淀殿を説き伏せて、漸く「加藤清正、福島正則、浅野幸長が二条城まで秀頼に随従する」ことを条件に、この会見は実現した。

会見当日、秀頼一行は大坂から御座船で淀川を遡り、京の上鳥羽で上陸している。
加藤清正と浅野幸長は、ここで秀頼を出迎えた。(福島正則は当日急病と称して大坂城に残り、留守を守っていたといわれる) しかし、彼らは豊臣家の家臣としてそこにいたわけではない。
この時、家康の九男義直と十男頼宣が出迎えに来ていたが、「幸長は義直の、清正は頼宣の介添え役として控えていた」のだという。
実はこの構図には深い意味がある。
というのは、清正の次女は頼宣と、幸長の娘は義直と、それぞれこの2年前に婚約しており、二人はこの家康の息子らと外戚関係にあったのである。
つまり、二人はもはや完全に徳川方にいた。この出迎えの場面は、はっきりとその事実を見せつけるものであったと言える。

しかし、なんだかんだ言っても秀頼の顔を見ると、清正らの気持ちはすっかり豊臣家の家臣に戻ってしまっていた。
二条城への道筋、秀頼の姿を見て歓声をあげる群衆の中を清正は誇らしげに秀頼の輿を護り、会見中も秀頼の側を離れなかった。そして、会見の後酒宴になり一時ばかりが経過すると、清正は、
「さてさて、大坂ではお袋様がすぐにもお顔を見たいと待ちかねておられましょうぞ。遅うならぬうちにお発ちになられませ」
と、秀頼を促し、帰城を急がせたという。
(肥後め、でしゃばりおって。おのれの立場が分かっておらぬ・・・)
家康は、心中不快だったに違いないが、その場は快く一行を送り出したようだ。
二条城を後にした秀頼一行は、豊国神社(秀吉の墓所)に参拝し、修復中の方広寺の大仏を見物した。清正たちは、殆ど城から出たことのない秀頼に、父秀吉の墓参りをさせてやりたい、父の偉業を見せてやりたい・・・と思ったのだろう。彼ら自身、豊臣家全盛期に思いを馳せながら、思い出話に花を咲かせたのではないだろうか。
短い京見物の後、一行は伏見の清正の屋敷に立ち寄り、心尽くしのもてなしを受けて、大坂城へと無事帰城した。

この日、清正には、関ヶ原後少なからず心苦しさを感じていた豊臣家に対して、漸く役に立てた・・・という面目躍如の思いがあったのではないだろうか。単に秀頼の警護を勤めれば役目は済んだものを、徳川家に睨まれることを承知で、敢えて自分の屋敷で秀頼をもてなしたことも、清正の心情を表しているように思える。
と同時に、秀頼も、自分たちも、これ以後は皆前を向いて新しい時代を生きることができる、という豊臣の時代への訣別の気持ちもあったのでは・・・そんな気がする。
清正とともに会見に随従した片桐且元は、この直後所用でしたためた書状に、
「天下静謐故、別して目出度と存じ候」
と書いている。豊臣家が譲歩を見せたことで全ては丸く収まった・・・と、彼らは胸をなでおろし、喜び合っていたに違いない。

やっと豊臣家に恩返しができた、という安堵で張りつめていた気持ちが緩んだのか、この会見の直後の6月、清正は大坂から肥後へ帰国する船の中で突然病に倒れ、帰国後間もなく息を引き取る。
死因は花柳病、長年患っていた梅毒と伝えられている。49歳の誕生日の死であった。
もっとも死因については、浅野幸長も同年に同じ病いで死んでいることから、二人の死を家康による暗殺と見る説も根強くあるが、真相は分からない。

その家康はと言えば、清正や且元の安堵とは裏腹に、この秀頼との二条城の会見で、豊臣家を潰すことを決意したと言われる。
しかし、この日もし家康を恐れさせたものがあったとすれば、それは無力な秀頼自身ではなく、秀頼の姿を見ただけで歓声をあげ、涙を流す京の人々、そして今や恩賞を与える力も持たない秀頼に対して、嬉々として無償の忠勤を行おうとする清正や幸長たちの姿ではなかっただろうか。
清正にとっては、何とも皮肉なことである。
ただ、清正は、何も知らずに死んだ。四年後の豊臣家滅亡を見ずに済んだことは、清正にとってせめてもの幸運だったのかもしれない。

 

何故「愛すべき」英雄なのか

梅毒に痔という、外聞を憚る持病持ち。
天下無双の武者であって領民にも慕われたが、肝心なところがどこかズレている。
家康の婿、外戚となり、着々と足場を固めていたように見えるが、秀頼の前に出ると、家康が見ているというのに、気がつけば嬉々として豊臣の忠臣になりきっていたり。
豊臣家中で権勢第一だった頃の石田三成にどうしても頭が下げられず、ピンチに陥ったり。
結局のところ、この人は素でしか生きられない人だった・・・そんな印象を受ける。
功名心の塊のクセに、損得勘定だけではどうにも体が動かない。そういう青臭いところが、加藤清正の魅力だと思う。
ただの英雄ではない。いや、彼は英雄ではない。でも、「愛すべき英雄」とは、言えるのではないか。