◆アメリカン・ニューシネマの代表作◆
1976年のマーティン・スコセッシ監督作品。
今年公開のスコセッシ作品「沈黙-サイレンス-」 ―――今のところ、私の中では今年の新作の中でNO.1です―――を観てから、正直以前観た時にはあまりピンと来なかった「タクシー・ドライバー」に対する見方も変わりました。
共感しづらく、薄い膜に覆われたようなもどかしさを感じていたこの作品が、突如クリアに見えてきた感じ・・・あ、スコセッシ監督の映画って芯にあるものはずっと一貫しているのかもしれないなと、ストンと腑に落ちるものがあったんですよね。
「タクシー・ドライバー」は、ニューヨークという大都会の片隅に生きる孤独な青年・トラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)の物語です。
ベトナム戦争帰還兵、戦争の精神的後遺症で不眠症に悩み、そのせいか若いのに職に恵まれず、割がいい仕事とは言えないタクシー運転手を生業にしています。
ある時、大統領選候補者(パランタイン)の選挙事務所に勤めるベッツィー(シビル・シェパード)に一目惚れしたトラヴィスは、彼女をデートに誘います。
最初はいい雰囲気、2人の関係は順調に進展しそうな気配も・・・ところが、ベッツィーをポルノ映画に誘うという大失態をおかしてしまうトラヴィス。
ベッツィーは激怒し、トラヴィスの恋はスタート地点に立とうとした瞬間にあっさり破局を迎えます。
以来とりつくシマもないベッツィーの態度に逆上したトラヴィスは、彼女にストーカーまがいの行動まで。
しかし、警察沙汰にされそうになったところでトラヴィスは彼女をあきらめ、その後、行き場を失った失恋(或いは自分に門戸を閉ざす社会)への怒りを、暴力に向け始めます。
銃を買い、ベッツィーが支持するパランタイン候補暗殺を計画し始めるトラヴィス。
急速に過激で危ない男に変貌していくトラヴィスの行きつく先は―――
◆或る時代・或る社会の空気を投影した人間像◆
そういう言い方が正しいのかどうかはよく分かりませんが、スコセッシの映画って一見エンタメを装いながらも重厚で、かなり社会派的な色彩が強いのかなと。
登場人物たちの多くは、或る時代や社会の空気を色濃く纏っていて、社会の鏡のような側面を持っているように見えます。
「沈黙ーサイレンスー」や「ギャング・オブ・ニューヨーク」は、そのテの作品の典型と言えるんじゃないでしょうか。
「タクシー・ドライバー」のトラヴィスもまた、’70年代のアメリカ社会の空気が濃密に投影された青年です。
ベトナム戦争がもたらした社会の疲弊、自信喪失・価値観の崩壊、そして体制批判・・・おしつけがましい反戦論は一切出てこないし、戦争は直接ストーリーには絡んで来ないものの、夢もなく、どこか若さを失っているように見えるトラヴィスからは、鬱屈した社会の空気が立ち上っています。
「政治家暗殺」という反体制的な行動に出るところも、体制批判が盛り上がった時代を反映しているところかもしれませんね。
もっともトラヴィスは本来政治には無関心で、彼は単に失恋のはらいせに政治家を殺そうとしているにすぎない・・・やろうとしていることの凶悪さや社会的影響の大きさと、動機の小粒さとのギャップに唖然とさせられてしまいますが、彼の危なっかしい暴走には狂気の影さえ浮かんでいて、鳩尾がひんやりしてくるような怖さも。
暗殺決行の当日、モヒカン刈りというスタイルで暗殺ターゲットのパランタイン候補の演説会場に現れるトラヴィスの姿は印象的。
モヒカン刈りの醸し出す反逆のイメージと攻撃性が、彼の思想なきテロの不気味さを一層際立たせています。
◆トラヴィスの振れ幅◆
私が以前観た時にはこの映画を好きになれなかったのは、トラヴィスの人物像の捉えにくさが大きな原因だった気がします。
スコセッシは彼をどんな人間として描きたかったのか?がすんなりと入って来なかったし、そこに苛立ちのようなものを感じていました。
そういう違和感があったのは多分、トラヴィスが映画の中で見慣れた人物像とはとことん違っていたせいかもしれません。
彼は見慣れた正義のヒーローでもなければ、ありがちなサイコパスやソシオパスでもない、等身大でどこにでもいる感情移入しやすい一般人でもない。
デ・ニーロだから当然ルックスはカッコイイけれど、それと裏腹に人物像としてはもの凄く滑稽でカッコ悪いし、不気味さも漂わせてる。
デートでポルノ映画、フラれて逆上してストーカー行為、果てははらいせに殺人計画・・・鏡の中の自分となりきりで会話する彼の姿には、狂気の影さえ感じます。
こんなドン引きするような一面を晒しつつも、一方では売春組織で働かされる家出少女アイリス(当時13歳のジョディ・フォスター)を助けようとしたり・・・一貫性がなく感じるほど、振れ幅の大きい人物像なんですよね。
従来のハリウッド映画の価値観を覆そうとしたニューシネマ時代の作品とは言え、シンブルさが身上のハリウッド映画がこれほど振れ幅が大きい人間、しかもヒーローやアンチヒーローではなく、ごく平凡な主人公の情けない一面までも描き出していること自体驚きで、これをどう受け止めればいいのか、正直戸惑いがありました。
でも、「沈黙~」を観て、漸く、これは人間の相対性を描いた作品だと納得できたんです。
「沈黙~」が私にとって新鮮だったのは、人間を一面的には描いていない作品だから。
多面的な視点から物事や人物を捉えようとすると、ともすれば作品を冗長に見せかねないだけに、この作品が敢えて善悪二元論で話を単純化せず、人間の多面性を描き出していることが強く印象に残りました。
物事の「相対性」に光を当てようとする姿勢は、(全て観たわけではありませんが)他のスコセッシ映画にも共通している気がします。
「タクシー・ドライバー」のトラヴィスの人物像にも、そういうスタンスがはっきりと反映されていると個人的には思います。
◆トラヴィスを英雄に仕立て上げた社会◆
この映画でスコセッシが描き出した「相対性」は、いくつもの側面を持つトラヴィスの人物像だけにとどまりません。
大統領候補パランタイン暗殺に失敗し、殺人の矛先を少女売春で稼ぐ男に向けるトラヴィス。
凄惨な殺戮は、マスメディアによって美談に仕立てられ、トラヴィスは一躍ヒーローに。
しかし、大統領候補を殺そうとしたトラヴィスも、少女を食い物にする犯罪者を殺して少女を救ったトラヴィスも、根っこの部分では何も変わっていない・・・以前と同じようにタクシー・ドライバーを続けているトラヴィスを、以前とはうって変わってウットリした眼差しで眺めるベッツィーの豹変ぶりには、何か滑稽ささえ感じてしまいます。
この映画を物事の「相対性」という切り口で眺めた時、一番気になったのは、トラヴィスに対するベッツィー(彼女は「社会」または「一般大衆」に置き換え可能な存在)の豹変ぶりです。
たしかにトラヴィスには少女を救いたいという善意もあった・・・でも、理由なき殺人への衝動が彼に事件を起こさせたという側面も確実にあるように見えます。
残虐な殺人者か、それとも勧善懲悪のヒーローか?一私人が勧善懲悪のヒーローとして殺人を犯していいのか?
さまざまな疑問が沸いてくる中で、マスコミはトラヴィスをヒーローに祭り上げ、トラヴィスに見向きもしなかった一般大衆が手のひらを返したように彼をほめそやす・・・
この映画はベトナム戦争が社会にもたらした負の遺産を描きながら、間接的に戦争を批判しているようにも見えますが、作者が最も冷ややかな眼で眺めているのはメディアに流されていく一般大衆なのかもしれません。
◆もはや普遍的◆
これまで本作を「古い映画」と決めつけ、隅に押しやっていた私ですが、もう一度観直してみると、人間の相対性という複雑なテーマに挑戦したオリジナリティー溢れる作品。
決して一般ウケする内容ではないのに、そこを度外視してここまで複雑な映画を作ったことに驚かされます。
分かりにくい内容にも拘わらず多くの人に受け容れられたのは、デ・ニーロやジョディ・フォスターの魅力も手伝ってのことでしょうが、何よりもスコセッシたちの「新しい映画を作りたい」という情熱が観客に伝わったことが大きいのでは・・・と想像しています。
流行を追った映画はすぐに古びてしまう中で、「タクシー・ドライバー」には社会や時代を外側から眺める視点があり、時を経ても「ある時代を鋭く捉え、批判した作品」として観ることができる・・・そういう意味でもはや普遍性を持った映画と言える気がします。
もっとも、今の時代ならデートでどんな映画を観ればいいのかはネットが優しく教えてくれるわけで、トラヴィスみたいにトンデモな映画をチョイスしてフラれる羽目になることはない・・・そういう部分には、やっぱり時代を感じちゃいますけどね。
(画像はIMDbに掲載されているものです。)