「暗黒街の顔役」(Scarface) 犯罪撲滅キャンペーンを装わされたピカレスク・ロマン | シネマの万華鏡

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映画記事は基本的にネタバレしていますので閲覧の際はご注意ください。

 

◆元祖「スカーフェイス」◆

 

1932年のアメリカ映画。(監督:ハワード・ホークス 脚本:ベン・ヘクト)

原題の”Scarface”は、本作の主人公トニーのモデルとされるアル・カポネの異名。「顔に傷がある男」の意味です。

1920年代のアメリカを舞台に、禁酒法の下での酒密売の縄張りをめぐるギャングの抗争を絡めながら、ギャングとしてのし上がっていく主人公トニー(ポール・ムニ)の栄光と自滅を描いていきます。

 

1983年に製作されたアル・パチーノ主演の「スカーフェイス」はこの作品のリメイクで、トニーの出自をキューバ難民という設定に変更したものです。

 

◆禁断の魅力を湛えた男たち◆

 

1930年代にこれほど危険でこれほど面白い映画が作られていたとは!

技術の進歩と映画の面白さが比例するとは限らないことを思い知らせてくれるような良作ですね。

登場人物の中に女性は少なく、トニーが当初仕えていたボスの愛人ポピー(カレン・モーリー)と、トニーの妹のチェスカ(アン・ヴォーザーク)くらい。残りは殆ど男性なんですが、それぞれの個性が凄くビビッドで、誰をとっても魅力的です。

中でも圧倒的に異彩を放っているのは、やはり主人公のトニー。

どこか狂気を感じさせるほどの突き抜けた冷酷さと野心の持ち主である反面、機智に富み、人を惹きつける強い魅力も兼ね備えたピカレスク

ボスの愛人ポピーを略奪しようと彼女にアプローチしていくトニーの、巧みな女あしらいと愛嬌には、女なら誰でも陥落させられそうな気さえしてしまいます。

 

そんなトニーに、ついにポピーが落ちたシーンは圧巻。

煙草を咥えたポピーにボスがすかさず火を差し出したところで、わざと自分も火を差し出すトニー。

ポピーは一瞬迷うものの、トニーの差し出したほうのライターで火を点けるんですねえ・・・トニーにしてみれば、ライバルを目の前にしてのこれ以上なく残酷で鮮やかな略奪の成就!

トニーの下剋上に絡めたこの三角関係の顛末は、眼が離せない面白さです。

ポピーが簡単には落ちそうにないお高くとまった女なのがまた略奪劇を盛り上げていますね。

 

トニーの右腕のリナルド(ジョージ・ラフト)の、トニーと好対照の静的な存在感も魅力的。

コインを投げては受け止めて弄ぶ癖が彼のトレードマークです。

常にコインで遊びながらポーカーフェイスを崩さない・・・それなのに、どういうわけか或る時は端正な優男に、或る時は不敵に、或る時は不気味にさえ見えるのが不思議。

素顔のジョージ・ラフトも組織とつながりがあったそうですが、そのせいか、リナルドからは底はかとない「本物の凄み」が立ちのぼっています。

 

ちょっと(いや相当?)間抜けなトニーの秘書アンジェロ(ヴィンス・バーネット)も、脇役ながらこの映画に欠かせない1人でしょう。

風貌といい、やらかし方といい、本作の癒し系マスコット的なポジションですね。

 

(トニー(右 ポール・ムニ)と片腕のリナルド(左 ジョージ・ラフト))

 

◆禍々しさを煽る巧妙な演出◆

 

冒頭からタイトルバックに「×」印が描かれている本作には、本編の中にも至るところで「×」が登場。

この作品では、トニーが人を殺す都度何かしら「×」の形をしたものを映し出すというシンボリックな演出が施されています。

例えばボーリング場でトニーたちが敵対勢力のボスを殺すシーンでは、ボーリングに興じていた被害者が直前にスコア表に「×」(ストライクの意味)を書き記す・・・といった具合い。

殺した本人が書き記すのではなく、登場人物の意思とは全く関わりのないところに「×」が現れるだけに、禍々しさや不気味さは一層煽られます。

時として死を予告するかのように、事前に「×」が現れる時も・・・これは非常に惹き込まれる演出です。

 

これ以外にも、惨殺体や血を見せずにゾッとさせる映像面での工夫がこの作品には詰まっています。

上のボーリング場のシーンでも、撃たれた被害者の死にざまを映さない代わりに、彼が撃たれる直前に投げたボールが一打で9本のピンを倒し、残りの1本のピンがグラつきながらゆっくりと倒れる映像が、銃声に重ねて映し出されます。

最後のピンの倒れる様子が、まるで撃たれてもがきながらくずおれる人間の姿のよう。

暗示的な見せ方がとても印象的です。

 

このテの間接表現だけでなく、窓ガラス全壊の銃撃戦やカーチェイスなど、その後のギャングものの定番になったアクション・シーンもしっかり盛り込まれていて、躍動感・迫力も100点満点!

繰り返しになりますが、技術の進歩と映画の面白さとはベツモノなんですね。

 

◆2種類ある結末とリメイク版の意図◆

 

ところで、この作品にはハードタイプとソフトタイプの2種類のラストシーンが用意されているんですよね。(クラシック・フィルム・コレクション版DVDには、両方の結末が収録されています。)

 

 

DVDに添付されている解説によれば、この作品の製作にあたっては、「ギャングを礼賛する内容と残酷過激な暴力描写、トニーが妹に抱く近親相姦的な愛情描写」をめぐって、MPPDA(米国映画製作配給者協会 米国映倫の前身)との間でかなりの攻防戦があったとか。

5カ月にわたってモメた結果、タイトルの下に「米国の恥」と入れること、冒頭の「ギャングに無関心な政府に訴える云々」という断り書きを加えることで審査を通過

要は、犯罪撲滅キャンペーンを装う形で上映を認められたわけです。

 

2種類の結末は、州法の縛りによってハード版(トニーが逃げようとして撃たれ死亡)を上映できない場合はソフトタイプ(このバージョンではトニーは逮捕され、刑死)を上映するために用意されたもの。

冒頭の断り書きとこの2パターンの結末の存在だけでも、この映画がいかに倫理規制や法との忍耐強い調整の中で生み出されたものかがよく分かります。

 

この映画が世に出た1932年という年は、アル・カポネが脱税容疑で起訴された年の翌年で、まだまだ彼の威勢が凄まじかった時代。

当時この映画を観た人の中には、悪人必滅の結末に溜飲を下げた人も少なくなかったと思います。

 

しかし一方では、この作品を観た多くの人は、断り書きや結末のトニーの哀れな姿とは裏腹に、この作品が本来描こうとしているものが、倫理という次元を離れたバイオレンス映画としての躍動感や緊迫感・仁義なき下剋上物語の面白さだということに気づいたはずです。

製作当時は狭い枠組みの中でしか表現できなかったトニーの生きざまのダンディズムを前に出したリメイク作品を・・・という動きが出てきたのも自然な流れに思えます。

何故リメイク版の「スカーフェイス」ではトニーの死にざまの潔さが大きな見どころになっているのか?も、元祖であるこの作品の(恐らく規制によって制約された)結末を見れば頷けます。

 

◆トニーの妹チェスカへの禁断の愛情◆

最後にタブーな話題。

本作の中で描かれるトニーの妹に対する強い執着心に、シスコンを通り越した何か異常な空気を感じた人は多いんじゃないでしょうか?

日本語版wikiediaの「暗黒街の顔役」の項では、監督のホークスは「カポネの物語を近親相姦や残忍な悪行で名高い中世イタリアのボルジア家風に味付けしてみたい」と考えていたと書いているし(ソースの記載はありません)、DVD収録の淀川長治の解説でもはっきりとトニーの妹に対する感情を「肉欲」と言い切っています。

明確な描写はないものの、MPPDAの検閲でも妹への近親相姦的な描写がネックだったとされていることを考えると、ここは近親相姦的愛情と見て良さそうです。

 

トニーの妹への執着は、彼を破滅へと追い込む直接の契機を引き起こす、本作の中でも鍵になる要素

彼と最期を共にするのが妹ただ一人だということも、ここに本作の意外な重心があることを物語っています。

妹への禁断の感情は、トニーという男の禍々しさと狂気の象徴。

そして彼の中で唯一野心や損得とは無関係の領域であるという意味で、彼にわずかに残された純粋さそのものでもある気がします。

 

この、トニーの妹への愛情が彼を自滅に追い込むという結び方は、リメイク版の「スカーフェイス」との大きな相違点の一つです。

リメイク版では、トニーの中に残されたどうしても曲げられない正義感が、彼を死に追いやります。

この辺りも、2つの作品の描き出すトニー像の違いが反映されているところです。

「暗黒街の顔役」のトニーが抗いがたい魅力を湛えた悪魔だとしたら、「スカーフェイス」のトニーは、最期まで白い羽根=男の美学を失わない堕天使のような存在・・・と言えるのかもしれません。

 

それぞれに魅力的で、全く違うテイストのオリジナルとリメイク。

「スカーフェイス」は、伝説的名作のリメイクが(時間はかかったにせよ)支持された、数少ない事例ではないでしょうか。

 

 

(画像はIMDbに掲載されているものです。)