映画「ヒッチコック/トリュフォー」(Hitchcock/Truffaut) | シネマの万華鏡

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◆ヒッチコック・ファン・トリュフォーによる、ヒッチコックのインタビューが下敷き◆

 

映画好きを自称する人で、映画監督アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)とフランソワ・トリュフォー(1932-1984)を知らない人はいないでしょう。

「サスペンス映画の神様」の名をほしいままにしたヒッチコック、そしてトリュフォーの方は、ヌーベル・ヴァーグ映画の巨匠であると同時に映画批評家としても名を残した人です。

この映画は、自他共に認めるヒッチコック・ファンだったトリュフォーが、1962年に行ったヒッチコックのインタビューの録音テープと、このインタビューに基づいた2人の共著「定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー」(1966年)を下敷きに、ヒッチコックの映画技術を解説した作品。

ヒッチコックの影響を受けた気鋭の映画監督のインタビューも収録されています。

監督は、ケント・ジョーンズ。

 

 

 

 

これは映画館で観るべきかどうか悩んだんですが―――というのは、こういう解説ものの場合DVDの方がじっくり観られるので―――ただ、ウェス・アンダーソンも出演しているし、早く観たかったので新宿シネマカリテで観賞。

 

多くのヒット作を生み出しながら、芸術とは一線を画す大衆娯楽映画作家と見做され、ある時期までは評論家には評価されなかったというヒッチコック。

トリュフォーが映画界で活躍し始めた当時、好きな作家としてヒッチコックを挙げると周囲に驚かれた・・・という話はこの映画にも出てきます。

そんな中で、映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」における鋭い映画評で定評のあったトリュフォーによるヒッチコック作品への賛辞が、ヒッチコックの再評価に貢献したことは間違いないでしょう。

 

トリュフォーのインタビューによって完成した「定本 映画術」は、映画関係者向けの実用書としてバイブル的な一書になり、多くの映画人に愛読されたとか。

ウエス・アンダーソンもペーパーバック版を持ち歩いて熟読したと話しています。

この本が世代を超えてプロに愛用されるのは、勿論ヒッチコックの技術が素晴らしかったからなんでしょうが、それだけでなく、トリュフォーの眼を通したヒッチコックの映画技術の具体的な解説が、映画づくりに携わる人にとって垂涎の内容だったことも大きいんじゃないでしょうか。

 

◆ストーリーではなく絵としてのインパクト重視◆

 

この映画で個人的に参考になったのは、ヒッチコックの映画作りはストーリーではなくはっきりと絵を重視しているということ。

実際ヒッチコックは映画の世界に入る前は絵の勉強もしていたようですし、逆に監督作品で脚本も手掛けたものは少ない(もしくは殆どない?)んですよね。

どんな地味なストーリーも見せ方次第で面白くなるという自負が、ヒッチコックにはあったようです。

 

もうひとつ、ヒッチコックの映画作りは論理的首尾一貫性よりも観客にとってのインパクトを重視するというスタンスだということ。

「論理的な映画なんて面白くない」と彼は言います。

何を取って何を捨てるか、非常にメリハリをつけているんですよね。

この辺りの談話も、ヒッチコックの映画の面白さ・見どころを知るにあたってとても参考になった気がします。

 

正直私はヒッチコック作品のストーリー自体にはあまり魅力を感じたことがないんです。

今回この映画を観るにあたって「白い恐怖」「知りすぎていた男」「裏窓」「鳥」を観たんですが、サスペンスとしてはかなりツッコミどころ満載なほうかと。(この中ではパニック映画の「鳥」が一番面白かったので、次回記事にしたいと思います。)

もちろん大変な数がある作品の中のほんの一部しか私は観ていませんから、全体像については到底語れませんが・・・

ただ、そもそもヒッチコックは「絵の人」なのだということが分かったことで、すごく腑に落ちました。

観るべきものは、ストーリーではなく映像美だったんですね。

 

その点、ヒッチコック映画の名場面を集め、解説付きで見せるこの映画を観れば、その映像美のすばらしさに開眼させられること間違いなし!

うっとりするようなクラシカルで美しい構図もカット割りも全てが職人技で、まさに「神は細部に宿る」という言葉がふさわしいシーンばかりです。

どんな絵を作りあげたら観客が喜ぶのか、彼は全て知っているかのよう。

キャスティングも、彼の作り上げる見事な調和の世界にふさわしい容姿の俳優・女優が厳選されている感じですね。

 

◆確立された映像文法◆

 

映画に音声は必要ない、いい映画は音がなくても何が起きているか理解できるものだ、というヒッチコックの言葉も、個人的にはカルチャー・ショックでした。

ヒッチコックが想定する観客は、評論家ではなくあくまでも一般大衆ですから、当然「理解できる人には理解できる」ということではなく、「誰にでも分かる」が前提の上での話でしょう。

これは彼の作品が絵を重視していることにも関連しているんですが、つまり彼の中には絶対の映像文法というものが存在しているということだと思うんです。

人はどんなアングルで、またどんな順序で絵を見せられたら、それをどういう事象と捉えるのかを彼は熟知しているし、それを映像作品の共通言語とみなしているわけです。

 

この映画では、ヒッチコックを映画ならではの表現方法(つまり映画文法)の進化・発展に大きく寄与した一人として位置付けています。

彼はサスペンス映画を通じて人間の心理を描き出す達人であったのと同時に、映像文法を自在に操って観客を映画の世界へと誘い、迷子にすることなくストーリーの流れに乗せることにかけても達人だったということでしょう。

ヒッチコック映画は流れに任せて心地よく観ていられるという印象を私は持ってるんですが、それも、彼の映像文法が伝わりやすく、かつ澱みない流れを構築しているからこそなんだと思います。

 

◆トリュフォーはヒッチコックを真似なかった◆

 

ところで、この映画を観ていてふと湧いてきた疑問。

ヒッチコック・ファンであり彼を同業者としても尊敬していたトリュフォーですが、そういう意味で彼は「ヒッチコックの影響を受けている」と言えるにしても、彼の映画が全くヒッチコック的ではないのは何故なんでしょうか?

 

トリュフォーの長編デビュー作である「大人は判ってくれない」(1959年)は、少なくともヒッチコック的テイストとは全く一線を画したヌーベルヴァーグ。

むしろヒッチコック的なクラシカルでゴージャスな映像美や、ステレオタイプの映像文法を否定しているようにも見えます。

トリュフォーの作品の中でジャンヌ・モロー主演の「黒衣の花嫁」はヒッチコック流のオマージュだそうなんですが、それはあくまでも本流とは違う試みの一つですしね。

逆に、ヒッチコックの美意識からすればヌーベルヴァーグ作品なんて到底美しいとは思えなかったんじゃないでしょうか。

この映画に引用された2人の会話の中で、ヒッチコックはこの1962年のインタビュー当時、トリュフォーの代表作「大人は判ってくれない」を観ていなかったということが分かります。

 

この辺のトリュフォーのヒッチコックとの距離の取り方は、ちょっと興味をそそられるところではあります。

このインタビューはヒッチコックにとって彼の名声を不滅のものにした一つの契機にもなっていると思うし、当初私はトリュフォーのためというよりはヒッチコックのために行われたようなものだと思っていましたが、トリュフォー側から眺めると、父親のような存在(2人の年齢差は33歳)であるヒッチコックの手法を完全に掌握し、父を超えていくためのステップでもあったのかなという気がします。

 

ヒッチコック映画を踏まえてトリュフォーの作品を観直してみると面白そう・・・映画ってどこまでも奥が深いですね。

 

 

(画像はIMDbに掲載されているものです。)