◆またまた特大のヒットを飛ばす東宝の快進撃◆
8月26日に公開されたばかりの新海誠監督のアニメ映画。
普通なら映画館で観ることはまずないジャンルの映画なんですが、
新海誠『君の名は。』驚異のハイペースでV2!公開10日で38億円(シネマトゥディ 9月6日記事)
と、なんだか大変なことになっているようなので、ちょっと偵察?に行ってみました。
私みたいな便乗厨効果で、今後さらに大ヒットに輪がかかることは確実!
ノベライズ本の販売も60万部突破(9月6日現在)と絶好調みたいですね。
「シン・ゴジラ」と「君の名は。」が今年の邦画の首位争いとか・・・どちらも東宝ですか。
今年はまた例年にも増して、東宝独り勝ちの様相が濃くなってきました。
さて、「君の名は。」。
設定としてはこんな↓お話です。
千年ぶりの巨大彗星接近に湧くその年、と或る田舎町の高校に通う三葉(みつは 声:上白石萌音)は、自分が時々東京の男子高校生・瀧(たき 声:神木隆之介)と入れ替わっていることに気づきます。
一体何故・・・と思いつつも、週に何度か入れ替わる日々が繰り返されていくうち、2人は自分のそれとは全く違う相手の生活をそれなりに楽しむように・・・そしてお互いのことを誰よりもよく知るようになります。
ところが、ある日突然入れ替わりは途絶えてしまい、瀧が何度電話してみても三葉には通じない。
もう一度三葉に会いたい、と、瀧は三葉を探しに岐阜に向かいますが、そこで待ち受けていた驚きの真実とは―――
はい、面白かったですね。
ツルツルッとした喉ごしの、キレイな映画。
ただ、
このキャラ好き!
このシーン最高!
みたいな、ぎゅっと掴まれる感覚は持てなかった・・・よくまとまっているけれど、サラッとしすぎていて、来年はもう内容を思い出せないかもしれません。
おっと・・・気が付けばちょっと否定的な入り方になってます?
ここまで大ヒットになると、否定的な感想は書きにくい雰囲気をヒシヒシと感じてはいるんですが・・・まあ、あまり人の意見に惑わされず、逆に意固地にもなりすぎないように、できる限り自然体の感想が書けたらなと思います
◆特殊な状況下の愛、それでいて誰もが共感できる「運命の出会いへの希求」に収束させるワザ◆
お互いが入れ替わったり、瀧が三葉の危機を救ったり、とても特異な状況の中で強く惹かれ合うようになる2人。
それなのに、捻じれた時間がほどけてしまった時、悲しいことに2人はお互いを忘れてしまう。
名前も、心と体が入れ替わるという形で共に過ごした日々のことも、お互いの存在すらも―――
ただ、「いつも何かを、誰かを、探し続けている」という感覚が、たしかにそこにあったはずの愛情の名残りを伝えいるだけ。
いつも何かを、誰かを―――2人が探している「誰か」は、不特定多数の中の「誰か」ではなく、はっきりと瀧にとっては三葉、三葉にとっては瀧です。
お互いを忘れてしまっていても、2人の間にはかけがえのない絆があって、その絆が2人を手繰り寄せていく―――
何度も繰り返される、「いつも何かを、誰かを、探し続けている」という言葉は、そんな、運命の糸の囁き。
この言葉がとても切なく胸に響くのは、いつか出会うはずの運命的な何か、運命の人である誰かを探し続けているのは、この2人に限らず誰もが同じだからかもしれません。
一見特殊な状況下の恋愛を描きながら、最後は誰でも共有しうる「まだ出会えていない運命の人への想い」という普遍的な、恋への憧れ・センチメンタリズムへとつなげていく―――この辺は非常にワザありだと思いますね。
それから、奥寺先輩。
瀧と奥寺先輩との初めてのデートは、どうやら失敗。目的地を巡った後、「食事でも」と誘った瀧は、彼女にあっさり断られてしまいます。
そして、去り際の彼女の言葉・・・
「瀧君は、私のこと、ちょっと好きだったことがあったでしょ。で、今は別に好きな子がいるでしょ」
この言葉も、別に美しい言葉でも何でもないのに、心に刺さりましたね。
もしかして奥寺先輩はこの一言のために存在した、と言っても過言じゃないかもしれません。
私は、奥寺先輩がデートを楽しめなかったのは、彼女が気に入っているのは「三葉と入れ替わってる時の瀧」で、本当の瀧のほうじゃないからだと一瞬思ったんですが、そうじゃなかった・・・自分以外の女の子が瀧の心にいることを、奥寺先輩は鋭く見抜いていたんですね。
瀧のマドンナに見えていた奥寺先輩に、瀧の三葉への想いを指摘させるというこの展開、ベタだけど、心を抉られるものがあります。
恋心の残酷さ、恋する女の預言者級の鋭さ、傷つきやすさ・・・デリケートで脆い恋愛の切なさがぎゅっと凝縮されているこの一言、好きです。
「言葉」と「少し捻じれた恋愛の機微」、そして両者の絡ませ方は、新海誠が最も得意とする要素なんじゃないかと思いますね。
◆大災害をも描き込みスケール感を持たせるも、実は一組の男女の恋愛譚◆
この作品、隕石落下や、瀧と三葉による糸森町の救出という、非常にスケールの大きな話かと思いきや、観終わってみると実質は全くの恋愛譚。
日本人ならたいていの人が3.11を連想するような巨大災害に見舞われながら、避難までの間一髪の攻防は緊迫感なし、その後の町の復興へのエピソードなども一切なし。
町民を救うために奔走した若者たちは、皆町を離れて東京にいるし・・・糸森町の悲劇を描いているようでいて、この物語の軸足は明らかに東京の生活のほうにあり、糸森の素晴らしさよりも三葉の中にある東京への憧れのほうが鮮やかに描かれているんですよね。
先祖代々からのふるさと・糸森町って、彼らにとって何だったんだろう―――
故郷を失う悲しみや復興の希望を描かないのなら、わざわざ風呂敷を広げて3.11を思い出させるような災害を絡める必要はなかったんじゃないか・・・という気がしてなりません。
また、神職を捨てて政治の道に入った三葉の父のことも。
隕石落下から村を救ったのは、政治家の彼ではなく、山の上の社に宿る神とその巫女である三葉でした。
この顛末をどう総括するのか―――と思ったら、父親の話も全く尻切れトンボで回収なしでしたね。
いろんなテーマが盛り込まれている作品の割に、最後は全てを放り投げて瀧と三葉の恋愛に帰結してしまっている・・・伏線回収の粗さ、一旦は超新星のごとく宇宙レベルにまで膨らみながらシュワシュワとしぼんでいくスケール感・・・個人的には最後はかなり盛り下がっていました。
◆宮崎映画にあって「君の名は。」にないもの◆
本作の大ヒットを受けて、一躍「ポスト宮崎駿」との呼び声も高まっている新海誠監督。
勿論「ポスト宮崎駿」というのは日本のアニメ映画の第一人者、という意味であって、そもそも宮崎駿の映画とは勿論全く作風が違う・・・とは思いつつ、そう言われるとどうしても宮崎アニメと比較してしまいます。
私が宮崎アニメの世界に強く感じるのは、自然と人間との関わりを非常に意識しているということ。
自然の力への畏敬の念、アニミズム的な思考が宮崎アニメにはあると思うんです。
自然と人間の関わりは人間の歴史の重要な一部でもあり、当然歴史観ともつながっていきます。
今回の「君の名は。」にも、糸森という土地に住む人々と、土地の神との関わりが描かれています。
主人公の三葉の家は古くから続く神社で、三葉は巫女。
この神社の神が、過去改変という大いなる奇跡を引き起こし、人々を救うお話―――勿論瀧と三葉の愛の力もそこには大きく関わっているし、2人を結び合わせたのは、この土地の人々が持つ隕石落下の悲劇を繰り返してはならないという願い。
でも、それは長い長い年月人々の信仰を集め続けた、土地の神の存在なしには行えなかったことです。
にもかかわらず、神への畏敬や感謝、土地の人々と神との深い絆は描かれていないんですよね。
ほぼ全て、2人の愛の力。愛が糸森を救った・・・そんな風にしか見えません。
そういう部分が、宮崎映画に比べて圧倒的に物足りない。
そこは芸術を指向している映画と、エンタメを指向している映画との違いでもあるんでしょうし、何がなんでも「もののけ姫」じゃないとダメ!ということじゃないけれど、本作の神の扱いはいかにも軽いし、薄い気がします。
結局「2人の愛」というところに収束するなら、いっそ最初から新宿御苑という限定された場所で育まれていく愛を描いた「言の葉の庭」のほうが私は好きだし、素直に泣けました。
ただ、少なくとも言えるのは、これからの時代「君の名は」というタイトルで連想されるのはもはやあの伝説のマチ子巻きドラマではなく、この作品だということ。
ここ数週間で完全に塗り替わった感があります。
そういう意味で新たな「君の名は」伝説を作った映画であることは間違いないのかもしれませんね。