塩を舐めていたんです。来る日も来る日も。ただ塩を。
聖書に「あなたがたは、地の塩である」という言葉が登場するように、古来から「塩」は人間にとって大切なものとして扱われてきました。他にもたびたび登場する「塩」は常に大切なもの、神聖なものとして扱われています。塩に塩気がなくなった世界など何と味気ないものだろう、ずっとそうやって塩は重宝がられていたのです。
また、日本でも、清めの塩などに代表されるように、あらゆる祭祀の場面で塩が登場します。盛り塩なんかもそうでしょうし、古来よりどれだけ塩が大切で清いものだったか窺い知ることができます。
そんな神聖なる塩を一心不乱に食べていた僕は、汚らわしき怨念を身にまとった自分を清めようとしたわけでもなく、ましてや自分の中の悪魔を塩で追い出すというわけでもなく、ただ単純に食べるものがなかったからです。
いやですね、とにかくヤバくてですね、普段からヤバい、ヤバいと申してるわけなんですけど、概算的にその13倍ヤバい。よく、試験直前なんかに「私ヤバいよ~全然勉強してない~、もう今日の数学捨てた~」とかいうブスがいますけど、お前は数学捨てるより早く処女捨てろって感じなんですが、実はそういうやつに限ってすげえ勉強してたりなんかして、始まった瞬間に机を掘削するんじゃないかって勢いでガリガリ書いちゃったりしてね、そういったね、軽々しく「ヤバい」って言葉を使う雑魚をなぎ倒して行きたい、それのどこがヤバいんじゃーと乳首を取り外してやりたい、それぐらいヤバかった。
何がヤバいって、金ですよ、金。あんまり金、金、言いたかないですけど、とにかく金がなかった。
これまでに数々の「金ない」系のお話をしてきたのですけど、そんな過去の金ないエピソードが富豪に思えるくらい金がなかった。とにかく金がなかった。具体的にどれだけなかったかと言うと、給料日まで25日あまりを残して所持金が1600円くらいに落ち込むという体たらく。おまけに公共料金とか家賃とか払ってなくてこれですからね。開いた口が塞がらないどころか死の臭いすら漂ってました。
ちゃんと給料貰ってるくせに1600円とか、お金たちがプリンセス天功ばりのイリュージョンを見せ付けてるとしか思えないんですけど、おまけに1600円しかないくせにゲーセンにある麻雀ゲームにはまってしまいましてね、その1600円すら綺麗に消えました。もう何がどうなってるやら分からず、たぶんこの格差社会が悪いんだ、社会が悪いと自分を慰めることしかできませんでした。
さて、そうなってくると問題は食い物の問題だ。なにせ給料日まで25日を1600円で生き抜かなければならない。しかも、その頼みの綱の1600円すら麻雀ゲームに使い切ってしまう四面楚歌。実質、0円で25日間を生き抜かなければならない。
最初の方こそは冷蔵庫を発掘して奥底に眠っていた食物だとか、部屋のアンタッチャブルゾーン(何があるのか分からないので触れてはいけない危険な領域)を捜索していつ買ったんだか分からないカップラーメンを発見、そいでもってスーパーの試食コーナーを大車輪などしていたのだけど、そうそう都合よく食物が見つかるわけないし、次第にスーパー側にマークされて試食もしにくくなる。
そうなってくるとね、もう塩を舐めるしかないんですよ。
部屋を探索してたら「食卓塩」がでてきまして、ハハハ、まさか塩なんて、塩で空腹が紛れるなんて、と思いながらぺロリと舐めてみると意外とイケる。というか普通に美味い。
最初はザッと手のひらの上に出してベロンベロン舐めてたんですけど、そのうち面倒になっちゃって直接ビンから舐め取ってました。で、塩を大量に摂取すると当然、喉が渇く、そこで水を飲んでガッツリ腹を膨らませるわけですよ。塩の後の水がこれまた美味い。塩を舐めれば舐めるほど喉が渇いて、イッヒッヒ、こうして水を飲むと・・・美味い!チャラララーンってなりそうなぐらいに美味い。ねるねるねるねくらい美味い。
まあ、数日もそんな生活を続けてると、大抵のことはどうでもいい世捨て人みたいになるんですが、今度は塩を舐めるのすら面倒になっちゃいましてね、最終的には水に塩を溶かして塩水にして摂取してました。
人間ってのはたくましいもので、そういった塩ライフでも慣れてきちゃうもんで、週末なんかは、「今日は金曜日、花金だし濃いめの塩水作っちゃうぞー」ってウキウキしてくるから不思議なものです。
いける、このままいけば給料日まで凌げてしまう!塩だけで凌げてしまう!
まあ、本気で塩のみってわけじゃなくて、本気で危ない時は禁断のクレジットを使ってローソンで買い物してたのですが、とにかく塩オンリーの限りなく生活費ゼロに近いエコライフを満喫していました。悠久の彼方の如き遠さに思えた給料日ももう目の前、イケルいけるぞおおおおお。
しかし、世間はそんな甘いものではありませんでした。世知辛い世の中なんて申しますが、僕らが生きている世界は甘くも世知辛くもない、ただ濃いめの塩のようにしょっぱい、涙の味のような現実が待ち構えているのです。
あれは先日の日曜日でした。
こういった金がないライフというのは日曜日が最も危険です。日曜日の、それも夕暮れ時が最も挫けやすい。
まず、日曜だというのに空腹なもんですから朝も早くから目が覚めてしまいます。で、どこにも行けないですからすげーつまんないローカル番組、具体的に言うと芸能人が海外に行って美食グルメみたいに振舞う番組を見たりします。それを夕方まで続けてフッと窓の外を見るとね、そこには雄大な夕日ですよ。全てを赤く染めたような暖かい夕日が広がっているのです。
ホント、日曜日の夕日ってのは犯罪的に寂しいもので、見てると何だか泣きたくなってくる。心の中に何かが入ってくる。そして、今の自分が情けなく思えてくる。
もう塩を舐める気力もなくて、水を飲むのももう嫌だ。オマケにクレジットカードで買い物しようとしたらカード停められてた。いよいよ八方塞り、四面楚歌、もうこれまでか、と部屋の隅で体育座りになって色々と悲観的になっていた。その時だった。
ピンポーン
来客を告げるインターホンが、空きっ腹に響かん勢いで鳴り響いた。
もうどんな来客が来ようとも出る気なんかなかった。どうせ出たところでガス屋かなんかで、僕の尻の毛まで引っこ抜かんとする魑魅魍魎ばかりなんだし、絶対に居留守使ってやる、こっちは腹がすいてそれどころじゃねえんだ、と一人で憤ってた。
ピンポーン ピンポーン
それでもインターホンは鳴り止まない。それどころかそのうちガンガンとドアまで叩きやがって只事じゃない雰囲気がムンムン。こりゃガス屋とか生易しいもんじゃないぞ、大家とかそういったレベルの、つまり立ち退きレベルの使者がやってきたに違いない。
これは大変ヤバイと思いつつ、これは尚のこと居留守使わないといけないなと思ったのだけど、それでもあまりに放置しすぎるとうるさくてかなわないので、空きっ腹を抱えつつ玄関まで赴きました。
あまりに空腹で気が立っていたのか見当違いなベクトルに怒りが増幅し、人が塩を舐めて過ごすほど飢えているのにチャイムを連打とか何事だ。もしこれでドアを開けて、肥え太った資本主義の豚とかだったら殴り倒してやる。絶対にやったる!女だったらアクシデントを装って乳を揉んでやる、と怒りの波動を身に纏い、「おっと失礼!」と乳を揉む仕草の素振りとかしてました。
ピンポーン
僕が玄関に到着しても、まだインターホンを鳴らしてやがったのですが、もうぶっきらぼうにドアを開けてやりましたよ。ドガーンと、ドアの向こうに赤子がいても構わないって勢いで開けてやりました。
「あ、どうもこんにちは」
そこには、一見して集金の人ではない、ましてや大家でもない、それどころかセールスでも女でもない意外な風貌の男が立っていました。
僕の人生や日常生活と全く接点がないんですけど、なんかダボダボの服を着た若者。髪だって金髪に染め上げてピアスとかジャラジャラつけてる風の、なんていうんだろう、大抵のことはジントニックで解決しそうなDJ風の若者がダルそうに立ってました。
これは納得。いやいや、なぜこのDJ風の若者がウチに来たかは知りませんけど、この風貌の若者ならチャイム連打も頷けます。コイツは非常識です。まったく今時の若者は何考えて生きてるんだ。非常識にも程がある。
「何か用?」
本当はけっこう不機嫌でして、それでも怒りに身を任せて振舞うなんてのは出来ませんから、自分の中で最大限に譲歩してそれでも少しぶっきらぼうに切り出してしまいました。
すると若者は、なんだか気だるそうに、お前は明日世界が終わるって聞いてもダルそうにガム噛んでるんだろうなって感じでクチャクチャやってました。
なんかつまんない用事とか、つまんない話とかだったら、ちぎっては投げちぎってはして、塩のみで生活するのがいかに大変か8時間ぐらい説教してやろうかと思いました。普段では考えられないことですが、そう思わざるを得ないほど短気になっていた。
さあ、答えてみろ、何しにウチをたずねてきたんだ。つまんないこと言いやがったら口に塩つっこむぞ!とメラメラと何かを燃やしていましたところ。
「あのー、実は、今日302号室に越してきましてー、これ、なんていうんですかね、おすそわけ?違うや、引越しの挨拶の品を持ってきましたー」
なんと!
こんな青年が引越しの挨拶だと!すまん、僕が間違っていた、腹が減ってイライラしてた!やっぱ見た目で人を判断するもんじゃねーよなー、彼は今時珍しく引越しの挨拶を欠かさない物凄い常識的な若者じゃないか。誰だ、非常識とか言ったのは。
都市部では各家庭の横の繋がりが希薄になり、隣にどんな人が住んでるのか分からない。隣りに死体があっても気付かない。大勢人がいるのにその中での孤独ってのはクローズアップされがちですが、なんの、まだまだ捨てたもんじゃないじゃない。
「え、あ、はい。ありがとうございます。良いお引越しで」
とか、あまりの事態に気が動転してしまい、訳の分からないことを口走りつつ引越し挨拶の品を受け取ったのでした。
「いやー今時珍しい、気持ちのいい若者だった。まさか引越しの挨拶とはね。ここに住むようになってから初めて挨拶されたよ。自分だって挨拶とかしてねーのに」
とか部屋に戻り、僕は彼から渡された挨拶の品をムフフと見つめるのでした。
いやいや、この包み紙、そしてこの重量感、これは間違いなく「食い物」ですよ。クッキーかハムか知りませんが、栄養を取るに十分な品物が入ってるに違いません。引越しの品だからソバっての十二分にありえます。
そんな予想より何より、あの素敵な若者が漏らした言葉が決定的です。彼は「おすそわけ」と言い間違えた。たぶんちょっと言い間違えてしまったイージーミスで、決して彼が非常識とかそういうのではないのでしょうけど、これは決定的ですよ。僕も日本語は良く分かりませんが、「おすそわけ」なんてのは大概の場合が食い物を対象に言うものです。
田舎から大量にカキを送ってきたからおすそわけ、ちょっとシチューを作りすぎちゃったからおすそわけ、たまーにエロビデオ買い過ぎたからおすそわけとか山本順平君がやってきますが、そんなのは例外です。
もし、彼が食い物以外の品を持ってきた場合、「おすそわけ」などと言い間違えるだろうか?答えは否!これは絶対に食い物に違いない。
うおおおー、生命の危機すら感じていた時にこのタイミングの良さ、塩ばっかり食っててそれすらも嫌になってきた時にこのタイミングの良さ。これは神が僕に生きろと言ってるに違いない。そして彼は神が寄越した使いのエンジェルだ。
将来、僕が巨万の富を築いた時は、自伝にこのエピソードを掲載し、彼の銅像も立てよう、ありがとう、本当にありがとう、感謝の気持ちで美味しく頂かせていただきます!
もう感謝の涙を流しつつ、勢い良く包み紙を破るように開けたその瞬間でした。
「ジョイ」
なんか台所洗剤の詰め合わせが。
なんか目に痛いくらいカラフルな洗剤の詰め合わせが威風堂々、一世風靡セピアといった気概で箱の中に数本鎮座しておりました。パワープラスとか何の躊躇もなく書いてあるし、緑茶成分入りとかどうでもいいことが満載でした。これ見た瞬間にマンガみたいに綺麗にズッコケた。ズコーってなった。
こんなもん食ったら泡吹くだろうが!あの小猿め!
貧すれば鈍す、貧しくなってくるとバカなことをしてしまうという意味の言葉なのだけど、間違いなくコレは大当たりで、塩を舐めるわ、挨拶の品を食い物と勘違いして大はしゃぎするわ、それが違うと判明すると怒りだして、わざわざ挨拶に来てくれた若者をないがしろにして「二度とくんな!」と玄関に塩を撒く始末。あの時の僕は間違いなく鈍だった。
わかっちゃいるのだけど、やっぱり諦めきれなくて、その日も塩食って水飲んで寝たのだけど、あの包みを開けてジョイだった時の落胆を思い出し、そっと枕を濡らしたのでした。死ぬほど貧困に陥ってる時に食い物と見せかけてジョイだなんて・・・なんだか傷口に塩を塗られたみたいだ、と嘆きながら。