沢山のトンボが飛んでいた。中には交尾してるのもいた。
区画整理で生まれた新しい道路はこんな田舎町には不釣合いなほどに綺麗で大きくて、プンプンに匂うアスファルトの匂いと真っすぐに伸びる真新しい白線がなんとも印象的だった。
こんな誰も通らないような場所に立派な道路がついたことに、少年ながら泥臭い利権の匂いを感じずにはいられなかった僕だけれども、それでも新しい道路が大好きだったので、学校帰り、いつもより遠回りしてその道路を歩いてみた。
新しい道路は新しい景色を見せてくれるもので、普段見ない景色が流れていく。きっと、同じものを見ているのだろうけど、見る角度が変わればまた違った物に見えるのだ。
進んでいくと、小さな野原が見えた。小高い丘があり、背の高い植物が多い茂った野原。そこにはトンボが沢山飛んでいて、右へ左へ、せわしなく行き交っていた。その光景がなんとも印象的で、子供心に焼きついて離れない思い出の1ページになってしまった。
ちょうど学校で「トンボの一生」なる授業があり、幼虫から成虫を経て交尾、産卵、そこまでに至る生涯の短さに衝撃を覚えた後だったためか、トンボを見ながら感慨深い感傷的でおセンチな気分に浸ってしまったのだ。
このトンボたちの一生はそう長くはない。こうして飛びまわれるようになるまでに長い期間を要したというのに、あっけなくその一生を閉じてしまう。人間界においては一部の聖闘士が童貞という高いポテンシャルのまま死んでいくこともあるから、交尾を経て死ねるトンボはまだ幸せだ、などと思うのだけど、やはりその生涯は短すぎると言わざるを得ない。
こんなに元気に飛び交っている大量のトンボたち。彼らは本当に幸せなのだろうか。どうして何も疑問に思わないのだろうか。トンボ的にはそれで満足なのだろうか。いやいや、それは長さの問題ではない。無為に長い人生を過ごすくらいなら、花火のように短くても充実したものの方が良いのではないか。
僕はトンボで言えばまだ幼虫だろう。これから大人になって成虫になった時、満足に飛びまわれるだろうか。何の疑問も持たず、元気一杯に飛びまわれるだろうか。
真新しい道路にトンボが飛び交う野原、その境界に佇み人生について考える小学生な僕。傍目にはかなりシュールな光景だったのだろうけど、今でもトンボを見るたびに思い出すほど鮮明に焼きついている光景だ。
成虫になったらトンボのように何の疑問も持たずに飛び回る。そして、その生涯が短く終わろうとも精一杯生きる。きっと、大人になったらバリバリのビジネスマンになってバリバリに仕事しまくると思い描いていたのだろう。何の疑問も持たず、トンボのように飛びまくる。とにかく働いて働いて働きまくるやり手ビジネスマン。そうなるんだろうって幼心ながら漠然と思い描いていたのだろう、それが今やどうだ。
もう仕事なんてマトモにやったのはいつだったか思い出せないほどぬるま湯に浸った毎日。仕事場に行くは行くのだけど、ボケ老人のようにノホホンと過ごすウィークデイ。幼き日に思い描いたトンボとは程遠い、昆虫の死骸のような毎日だ。
その日も、まるで仕事をやる気がせず、死に行く前のトンボのようにボケーッとデスクに座っていたところ、6月だというのに無性に暑かった。あまりに暑いので今シーズン初のクーラーを投入しようと電源を入れたその刹那、悲劇は起こった。
ブフオオオオワアア
とてもクーラーとは思えない、何らかの悪魔の断末魔みたいな音を出して天へと召されたクーラー。ありがとう、今まで君がいたから暑い夏でも余裕で職場昼寝ができたよ。君の事は忘れない。
そんなこんなで、別に仕事しないので能率とか全く関係ないのですが、暑くて暑くてどうしようもないので窓を開けてボーっとすることに。今まで閉塞的な締め切った個室で仕事をしていたのですが、少し窓を開けるだけで開放感が違う。なにやら気持ちよすぎて、少しでも仕事しようかなって気持ちになってくるから不思議だ。
なんだなんだ、窓を開けるだけで開放的じゃないか。気分はラテンだな!と訳の分からないことを呟きつつ、引き続きボーっとしながら壊れたクーラーをどうするべきか、などと考えていたその時でした。
コンコン
僕の仕事場である個室にはあまり人が尋ねて来ず、僕が猥褻事件でも起こそうものなら同僚がワイドショーで「なんか孤立してましたよ、あの人ちょっと変わってるし、いつかやると思ってました」とかやけにハイトーンな音声で言うであろうほど疎外感があるのですが、珍しく来客があったのです。
もしや道に迷った美少女が、何故かびしょ濡れでブラを透け透けにさせてやってきたのでは、と期待に胸を弾ませてドアを開けましたところ見事にツルッパゲのオッサンが立っていました。
何でもこのオッサン、社内でも結構偉い人らしいのですが、いかんせん見たことないのでその偉さが分かりません。で、そのオッサンが思いっきり僕の個室に入ってきましてね、なにやら展開中のプロジェクトの説明を始めたりするんですわ。
やってきた瞬間に山ほどの書類を抱えていたので嫌な予感はしたのですが、このクソ暑いのにハゲのオッサンと個室で仕事の話とか勘弁願いたい。これが美女と水着でツイスターゲームとかなら最高なのですがハゲオッサン。最低すぎて言葉も出ません。
そこはまあ、僕も腐ってるとはいえいっぱしの社会人。ええ、成虫になったトンボでしょうから、「それは素敵なプロジェクトですね、面白そう」とか心にもないことを言いつつお茶を出したりなんかするんです。
そうするとハゲも嬉しそうに頭をテカテカさせてプロジェクトの説明を続けましてね、言ってることが難しすぎて半分も分からないんですけど、適当に相槌を打ちつつ、ボーっと窓の方を見てたんです。
そしたらアンタ、さっき開け放っておいた窓からトンボが入ってくるじゃないですか。トンボの季節っていつなのか知りませんけど、とにかくトンボが何の迷いもなく僕の個室に飛び込んできやがったんですよ。
しかもこのトンボ、ムチャクチャでかい。
もうギンヤンマとかオニヤンマとかそういったレベルのお話じゃない。メガヤンマ、ギガヤンマ、テラヤンマ、布袋寅泰、そういったレベルのデカさ。もう、話を聞きながらギョッとしちゃって、あやうくバンビーナとか叫びそうになったわ。
で、このデカトンボ、部屋の中をビュンビュン飛び回るのな。こっちはもう気が気じゃなくて、右へ左へ飛び回るトンボの一挙手一投足から目が離せない状態なのに、それに気付かず淡々とプロジェクトの説明を続けるハゲ、という危険な状態に。
もう僕の頭の中ではバンビーナの前奏が流れていて、トンボが書類タワーの上に止まって再度飛び立つ時に「レッツゴー!」とか頭の中で言ってたのだけど、ホントに頭の中のミュージックに合わせて縦横無尽に飛ぶのな。それがおかしくって笑いたいのだけど、オッサンが真面目な話をしてるので笑うに笑えないという極めてリスキーな状況。
しまいにはビーンと飛んできたトンボがピトっとオッサンの肩に止まるんですけど、熱弁しちゃってるオッサンはそれに気が付かない。すげー真面目な数値目標みたいな話を真剣にしてるの。肩にトンボ乗せて。
いくらオッサンが熱中しているといっても、肩に何らかの違和感を感じるらしく、話しながらフケでも落とすみたいに肩の方を払うのだけど、それでもトンボは負けていない。彼もまたオッサンの肩に何かを感じるらしく、同じ場所に何度も何度も止まる。
オッサンが払う、トンボとまる、オッサンが払うという無限ループに陥ってるのが餅つきみたいで死ぬほど笑えるのだけど、真面目な話をしているので笑うわけにはいかない。
落ち着け落ち着け、世紀末だって過ぎれば昨日さ、と必死で自らを諭し、笑いを堪え、グフってなりそうなのをなんとかお茶を飲んで誤魔化し、文字通りお茶を濁したのだけど、その瞬間に事件は怒った。
肩から払いのけられたトンボがブーンとオッサンの頭に止まりやがった!
側頭部とかなら良かったのだけど、見事にど真ん中、見事に頭の盗聴部分。一番テカってるところに止まりやがった。しかも、トンボのヤロウが真っすぐとこっちを見るように止まりやがったものだから、2本の羽と尻尾みたいな部分とでオバQの頭みたいになってた。
もうそれを見た瞬間、ブーッとお茶を噴出しちゃって毒霧みたいな状態に。思いっきりハゲにかかってしまい、大変なことになってた。
「なんだ!fへいじゅいrvjごvうぇぽf」(驚きすぎて声になってない)
「いや、すいません!急に口の力が抜けちゃって」(ハゲ頭にトンボが止まっていたとは言えない)
結局、顔を真っ赤にして怒っちゃったオッサンでしたが、どの道この道もこ道、プロジェクトに参加する気など毛頭なかったので、ハゲな人は怒って真っ赤になると頭のところまで赤くなるんだ!と妙なトリビアを手に入れただけなのでした。
子供の頃、思い描いたトンボのように、今の僕は何の疑問も持たずに飛び回れているだろうか。あの頃漠然と思い描いていたやり手ビジネスマンにはなれなかった。けれども道を歩きつつ、何の疑問も持たずに飛び回れているかもしれない。
そう思いつつ、またボーっとデスクに向かって道に迷った美少女が、パンツまで濡れちゃった!おやおや、本当に雨で濡れちゃったのかな、などというご機嫌な妄想をし、無為に勤務時間を過ごすのでした。
本当は、ハゲオッサンにかかったお茶を拭きつつ、ハゲ頭まで磨き上げたり、雑巾を頭の上に乗せて某一級建築士のようにして新たなドラマを展開させたかったのですが、さすがにそこまでやる度胸はなく、っていうかそこまでやったら間違いなくクビなので、消化不良のまま、この日記も尻切れトンボ、ということで。