”正解”を強制する性教育者たち | ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

【自分らしく、Eテレ。】朝までラーニング! 娘と父とアナウンサー、性を学ぶ。 - NHKプラス

実は全然別のネタで書いていたのだが、ながら見していたこの番組の内容に憤りを感じ、書きかけのものをボツにしてでも批判しておかなければならないと感じたのであった。

 

寛容であろうと願っている私が”批判すべき”と感じたのは、”感覚的な嫌悪”ではなく、”論理的に間違っている”からである。番組冒頭でサンシャイン池崎氏がコミカルに絶叫する。

 

「私は私 あなたはあなた。お互いに踏み込まない。多様性の時代なのだから、それはタブー。境界線を超えていけ!」と。

 

最後が意味不明だが、番組ラストに再びこれが登場する。そのときは逆から読むのだ。

 

「境界線を超えていけ! それはタブー。多様性の時代なのだから、お互いに踏み込まない。私は私 あなたはあなた。」

 

なるほど「多様性の時代だから境界線を超えてはならない」ということか。これなら意味は通る。だが、これが”正解”かのように語られることが論理的な誤りだと言っているのだ。

 

この番組は、昨今顕在化した”過去の性被害に声をあげられなかった人たち”に共感する流れから制作されたものだろう。当事者にとっては辛いことだっただろうが、それを一般化して”正解”を与えようとしている点が間違っている。

 

例えば助産師の櫻井裕子氏は、「”イヤよイヤよも好きのうち”という日本語をこの世の中から消し去りたい」とまで言う。これによる誤解が不幸を生むと考えているようだ。そんな例もあるだろうから個人的な考えとしては構わないが、それを”悪”と一般化するのが危険なことだと気付いてほしい。”悪”に認定された者は敵となる。敵は排除の対象であって啓蒙の対象ではないからだ。

 

それは性教育研究者の村瀬幸浩氏についても言える。氏が称賛している不同意性交等罪だ。こちらは明らかに犯罪者として罰するものである。明確な同意を必要とするのは、コミュニケーション能力の乏しい者を守ることにはなるだろうが、それはコミュニケーション能力を深める必要が無い流れをつくってしまわないかとも感じる。

 

前半で心理学者の小山顕氏が言っていたように、境界線(心理学ではバウンダリーというらしい)は自分を守るためだけのものではなく、ときに開いて外のものを吸収し成長をもたらすものである。先の二氏にはこの後者の能力を使わずじまいにさせてしまう懸念があるのだ。

 

境界線の開閉はイエス・ノーだけではなく、様々なニュアンスを含んだグラデーションのはずである。これがコミュニケーション能力にもなるのだが、最初から完璧に出来る人はいない。失敗する中から経験則として身に着いてくるものである。先の二氏の意見は失敗を許さないための予防拘禁的措置に感じてしまうのだ。

 

世の中から不幸を無くしたいとは誰もが思うことだろう。しかし、必要悪というものと同じように必要な不幸というものもあるのだと、鬱を病んだ私は感じている。せめて出来ることは、問題を作為によって(それが善意であってもだ)複雑化させないことだと思っている。