夫婦別姓論者が理解されるためには | ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

2月25日の「そこまで言って委員会NP」は法律がテーマだった。その中の細かい話なのだが、”改正すべき法律”としてパネリストの田嶋陽子氏が挙げたのが”夫婦別姓を早く導入すべき”というものだった。田嶋氏お馴染みの主張だが、それに対する竹田恒泰氏の反論が考察が足りずにぐだぐだになってしまっていた。困ったものである。

 

こう言う私はこの問題に関して同じく現行のままで良いとする立場なのだが、同じ立場の門田隆将氏の「日本の破壊ですよ」という主張も別姓論者を敵とすることにしかならない。これでは水掛け論である。私も門田氏同様、文化というものはそこそこ安定していて欲しいとは思ってはいるが、変わる必然があれば変わるべきだとも思うのだ。この”必然”の議論をしない限り話は進まない。

 

ご承知のように韓国では夫婦別姓であるが、これは進歩的であるからではない。儒教文化による言わば旧弊な価値観に根差すものであり、我が国とは逆に同姓を求める人もいると言う。

 

つまり、韓国なら別姓、我が国なら同姓の、それが当り前というマジョリティに対して異を唱えるマイノリティがいるという構図であるのは同じなのだ。韓国と我が国ではそれぞれの立場が逆転しているだけである。”進んでいるか遅れているか”ではなく、マイノリティの多様性をどうするか?という問題なのである。

 

選択的夫婦別氏制度に関する世論調査 (gov-online.go.jp)

上の内閣府の世論調査(平成13年でちょっと古いが)でも、その前回の調査(平成8年)に比べて別姓を容認する割合が32.5%→42.1%と増えている。多様性という言葉が認知されている現在なら猶更増加しているのではないだろうか。

 

だが、これは”他人”の価値観として認めようと思っているに過ぎない。自分のパートナーがそう思っている設定で同じことが言えるかと言うと全然違うはずなのだ。それを面白おかしく演じて見せたのが竹田恒泰氏の反論だった。

 

「彼女とね、チュッチュしててですよ。いい感じで、結婚したいと思うんだってときに、『私、別姓がいいの』(と言われて)え~っ?」となるシチュエーションだ。田嶋氏ら意識高いパネリストによって一笑に付されてしまったが、そうでない多くの人にとっては実は核心を突く問題だったはずなのである。

 

当り前のように同姓になってくれると思っていた相手がそうでなかった場合、若い人の言う”蛙化現象”が起きてしまうぐらいのインパクトがあるのではないだろうか。もちろん、そこに切実な思いが見え、きちんと子供の姓はどうすべきかとかまで考えているのであれば、好きな相手の価値観を大切に考えることにはなろう。

 

だが法律が変わり、そんな説明責任を必要としなくても「馴染んでいる姓を変えたくない」という理由だけで認められてしまったらどうだろう。先述した”必然”の議論に深まることがないではないか。そこにあるのは単なる”好き嫌い”という社会的に幼稚な感覚だけだ。結婚というものは、成熟した社会人への(好き嫌いを超えた)通過儀礼的な意味合いがあるが、それが失われてしまうのである。

 

そんな”幼稚な好き嫌いではない”という説明が出来て理解されるのであれば、マイノリティも社会的に正当性を持つことが出来ると思うのである。だが、いまのままで法改正がされれば、夫婦別姓のカップルを見つけては、内心で「好き嫌い優先でルールに従えないちょっと幼稚な連中なんだろうな」という偏見を生むことになるだろうと思うのだ。竹田氏よ、門田氏よ、最低この程度の考察はして欲しい。