困難に対して本当に有益なものは何か? | ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

あざと生きる僕の夢、19の決断|NNNドキュメント|日本テレビ (ntv.co.jp)

稀に見かけることのある顔に赤あざを持つ人のドキュメンタリーである。岩川雅治さん(19歳)はスタージ・ウェーバー症候群という血管の難病を持って生まれた。血管の腫瘍が皮膚を通して赤あざとして見えるのである。原因も治療法も分からない。

 

定かではないが、それ自体では痛むようなことは無さそうだが、あざを薄くするために幼少期に受けたレーザー治療は激痛を伴うようだ。その痛みと、心無い言葉や視線による痛みとを天秤にかけたのだろうか、小学4年生の時にはレーザー治療を自分の意思で止めた。

 

私は子供の頃から差別に関心があった。その意味で、特異な容貌を持つ人に対しても物思うことが多かった。心無い言葉は差別的だが、それ以前に人は特異なもの異常なものに注意が向く。もちろん私もそうだ。これは道徳や倫理以前の本能である。個体としての自分を守るために”異常”に対して敏感に対応するのだろう。

 

学術的に正しいのかどうかは分からないが、例えば伝染病における発疹などを気持ちが悪いと感じるのは、罹患しないために避けようとする遺伝子の仕業ではないだろうか。自身の感覚を辿るとそんな気がしている。

 

では赤あざはどうだろう。番組中では火傷という誤解があるようだ。だが火傷は伝染はしない。にもかかわらず気になってしまうのは助けようとする本能なのかもしれない。治療を行う緊急性があるという本能のアラームである。だが、赤あざは火傷ではないから間違った警報なのだ。

 

それにしても”心無い言葉”が私には分からない。善人ぶる訳ではないが、私は気の毒とは思ってもからかう気持ちになったことはないからだ。

 

番組の中で赤あざの大先輩である首藤雄三さん(当時57歳)は子供の頃のあだ名は”赤ザル”だったと明かした。そして、辛いけども笑顔で返した方が相手は分かってくれるとの体験談を語っている。ここから察すると、心無い言葉は未知なるものへの不安のレッテルであり、”仲間”を意味する笑顔という既知のものによって安心に繋がったということかもしれない。

 

そんな大先輩の言葉を聴きながら、岩川さんは中学時代にはあざを隠すのは”逃げ”であり、「あざがある自分が岩川雅治なんだ」という心境に至っている。そして自分のように苦しむ子供を減らしてあげたいと医者の道を目指すようになったのである。

 

そして努力が実って医学部に合格したのだが、その半年後に医学ではない理数系の道をやり直したいと退学するのである。”医者になる夢が医者にならなければならないというノルマになっている”と彼は感じていたようだ。これは後退をイメージさせるのだが、私には理数系の勉強の面白さに気付いたのではないかという気がした。

 

いや、本当のところはもちろん分からない。しかし、医者になって”自分のように苦しむ子供を減らすこと”よりも、本当に好きなことをやっていくことの方が、あざを持ちあざを気にしてしまう自分にとって有益だと感じているのだと思うのである。好きなことはそれ以外のことを気にさせなくしてしまうのだ。そして、それは”自分のように苦しむ子供”への道標のつもりでもあると思うのである。