進化心理学を御存知だろうか? | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)
以前、放送大学の進化心理学について書いたことがあるが、回が進むとやはり私の嗅覚は間違っていなかったと感じている。面白いのはもちろんだが、自分の性格を考える上で符合することが多いのだ。
実は私はなかなか親切な人間である。いや、こんなこと自称しても自慢にはならない。世間一般には親切であることは褒められるべきものだろうが、褒められなくても他人のために何かしてあげたくなる、それが私を含む親切な人間の性なのである。
この親切というものは基本的には利他的な行為である。それによって感謝されると嬉しいので自分に利益が返ってくることもあるが、感謝されるとは限らないのだ。にもかかわらず”してしまう”のは先天的な何かに突き動かされているからにも思えてくるのだ(以前にはこれをドーパミンによるものとしたことがあった)。
鬱とドーパミン | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)
蛇足ではあるが、私のようなメランコリー親和型性格の場合”してあげる”ことによって気を使わせてしまうだろうと、”あえてしない”という選択もしばしばしてきた。だが、このときに”してあげよう”というコストは既に支出しているのだ。この報われないコストは浪費なのかもしれない。
一方、進化とは個体が適応するために得た変異だが、これは基本利己的なものなのだ。遺伝子の受け渡しによって成り立っている以上、子孫を残せる個体としての安定的な適応が必須であるからである。だから利他の為に子孫を残せないほどの自己犠牲があっては進化はしないとされている。
それなら人間の利他的行動≒親切とは一体何なのか? それが進化心理学の中心的なテーマになっているようなのだ。困った時はお互い様(互恵的利他主義)とかによって、自己犠牲的なコストがそれなりにあっても、利他の相手の好転によって巡り巡ってそれを上回る利益を得るからだという説明がされる。
これは道徳や倫理が発明される以前の行動原理を紐解く作業であろう。構造的には直観的(ヒューリスティック)な認知バイアスが、偏見を生むだけではない真の有用性があるのだとすることを確認する作業にも似ている。
ヒューリスティックスを司るもの(”もの”と言えるのかどうかも分からないのだが、それは感情や意思以前に備わっていたようにも感じる。以前に”受動意識仮説”というものを取り上げたが、道徳的な親切心というのも、意識以前に刷り込まれていた適応的行動を後付けで説明しようとしたものに思えてくるのだった。