国境によって守られているものがあるのは常識ではないか | ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

今更な話題かもしれないが、バイト先の商業施設ではJポップが流れている。私はマイナーな洋楽しか聴かない偏った人間なのだが、昨今耳障りな曲に悩まされているのだ。それは「もしこの世界から国境が消えたら」という歌詞の曲である。帰宅後に硬派なジャズとかを聴いて脳を洗浄する毎日である。ヒットしているだろうからファンもいるだろうし、批判的な意見は気分を害すだろう。そんな皆さんにはご遠慮いただきたい。

 

花は誰のもの STU48  作詞︰秋元康

もしこの世界から 国境が消えたら争うことなんかなくなるのに…

荒地にポツンと咲いてるその花 誰のものか?なんて
誰かと誰かが 自分のものだとお互いに言い張った

どこから眺めていたって 美しい花は変わらず 美しい
奪おうとすれば 愛はやがて踏み躙(にじ)られる

 

「イマジン」の半世紀遅れの二番煎じというところだが、私はその本家「イマジン」もあんまり好きではない。中学生のときにビートルズのコピーバンドをやってたぐらいだからジョン・レノンには好きな曲も沢山ある。だが「イマジン」は歌詞以前に曲としての魅力が感じられなかったところへ、彼の死によって代表曲として神格化されてしまいますますイヤになってしまったのだ。

 

それでも半世紀前(1971年発表)の時代背景を考えればまだ擁護も出来よう。あの頃は「人類は本当は手を取り合えるのに国家という枠組みがそれを邪魔している」という国家を悪者にする思想がロックミュージシャンに支配的だったからである。もう少し後(’80年代)だが、私がアナーキズムに目覚めた頃も対国家的な意識はあったものだ。

 

だが、この「花は誰のもの」は現在の、おそらくロシアのウクライナ侵攻を受けての意味を込めているのだろうが、それがこれでいいのだろうか?と思うのである。ウクライナは国境によって踏み止まれているのが現実ではないのか。国境が無ければ攻め込まれ放題ではないか。ウクライナの荒れ地にポツンと咲いている花をロシア軍が自分のものだと攻め込んで来ているときに、抵抗するウクライナ人に対して「どっちもどっちだ」と言っているように私には聞こえる。

 

如何なる所有権も否定するというラジカリズムだというなら、それもひとつの立場かと思うが、作詞家は秋元康氏である。私は氏の仕事には何の興味も無いが、商才に長けた人だとは思っている。そんな商売人が所有権を否定するのは大いなる矛盾ではないか。

 

また氏の仕事は、思考停止した層への巧い回答を与えるある種オピニオンリーダー的側面もあるだろう。「戦争なんてよく分からない」と言っている層にそれなりの納得のいく答えを提案するということだ。それがこんな受け売りでいいと思っているのだろうか? 商売人としての志があまりにも低いと感じる。(注、思考停止という言葉に反発された方もいるだろうが、私自身もジャンルによっては思考停止していることを承知した上での話である)

 

録画していないので正確な発言は分からないが、カンブリア宮殿(テレビ東京系)で秋元氏が出演しているのを観ていた。その中で氏は、自分の感性に忠実であるべきというようなことを言っていて意外に思ったものだ。そんなものには背いてでも大衆の支持を得られるものを目指しているように感じていたからである。それならば氏はこんなフィクショナルな世界観で満足してしまえる感性なのだろうか。

 

ダメ押しでもう一点、氏のwikiを見ると「エンターテインメントの基本は予定調和を破壊することにある」と考え、既成概念にとらわれないことを重要視しているようだが、この歌詞はどう考えても現在では予定調和の既成概念である。興味が無くても耳に入って来る「ヘビーローテーション」や「フォーチュンクッキー」という大衆向けの言葉のセンスは巧みだとは思うのだ。それならば、もう少しリアルな言葉の選択眼を持って欲しいと思う。