受動意識仮説 「私」観の差異 | ひらめさんのブログ

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脳はなぜ「心」を作ったのか 「私」の謎を解く受動意識仮説 前野隆司 著

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上記著書を読み終えたが、著者前野氏との「私」観の差異が気になった。エピソード記憶が「私」をつくるという発想は大いに納得させられたのだが、著書内での思考実験に見られる見解には違いを感じたのである。一見言葉遊びに見えてしまうかもしれないが、氏と私との「私」観の違いが何なのかを考えるヒントになるかもしれないし、本書を読む人が自分がどちらに近いかという座標軸ともなるだろう。

 

少々ややこしい話となるが前野氏は『私』と《私》とを書き分けて考えるのだ。『私』はエピソード記憶によってつくられた自己意識のことで、《私》の方はその自己意識をつかさどる部分、つまり主体として感じている私のことのようである。私にはこの『私』と《私》を分ける意味がよく分からないのだ。

 

例えばこんな思考実験をする。「自分」の肉体を脳を含めて完璧にコピーできる機械があって複製を作った場合の話である。この時のコピーはもちろん意識を持っているが、それがオリジナルの自分の意識とは別にあるわけだ。当然コピーにもオリジナルにも全く同じ《私》が別々にあるのだが、オリジナルの《私》はコピーの《私》を不気味な他人のものとして感じ、《私》ではないとしか思えないと言うのである。

 

この問題、私が不思議に思うのは「自分のコピーを作った」というエピソード記憶が何故無視されているのかということだ。それさえあれば過去の記憶が完全に同一だったとしてもコピーかオリジナルかという決定的な違いを生じさせるからである。それならば「よく似た他人」として納得出来るのではないだろうか。もっともこれは《私》ではなく『私』の話になってしまう。だからこそ、私にとって不可分な《私》と『私』を分けようとする前野氏の発想がよく分からないのである。

 

別の思考実験では脳の中の《私》(注『私』ではない)が他人の脳に移植されたとする場合の話だ。このとき《私》の肉体も記憶を意識する『私』も他人のものに移り変わっているはずだと言っている。私もそうなるだろうと思う。だが、そこに何の意味があるのかと思うのだ。私にとっての《私》は主体と感じているだけで、エピソード記憶を意識し価値判断の基準を持っている『私』に比べるとどうでもいいようなものにしか思えないのである。

 

別の章では究極の選択としてこんな例を挙げている。自分の脳にある心の作用「知情意」「記憶と学習」『私』《私》のどれを失いたくないかという問いである。失われることを、他の機能を残して人工物に置き換えてみるとして考えてみるのだ。「知情意」の脱落は同意できるとして、「記憶の学習」vs『私』《私》で前野氏は後者に軍配を上げるのである。ここが私との違いだ。

 

異論は許してもらえると言うが、前野氏は明確に「記憶喪失より『私』の死の方がいやだ」と言う。対して私は記憶障害の前科もあるし、西部邁氏のように認知症になるぐらいなら自死を選びたいと思っているので「記憶の学習」を生きる意味とするだろう。前野氏がこだわる《私》の意味は分からないが、『私』がエピソード記憶≒経験の産物だと言うのであれば新しい『私』によっても再生可能ということではないか。

 

んんっ? なんとなく分かったのは私は客観的なものに、前野氏は主観的なものに重きを置いているということだ。どちらが偉いというものではない。ただ、この価値観の違いを生んだのは互いの経験の差によるのではないだろうか? だとすれば、やはり経験≒「記憶の学習」が前野氏にとっても重要なことにならないだろうか?と思うのである。