不寛容とは何か 「イントレランスの時代」 | ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

 

 

私の大好きな差別がらみのドキュメンタリーを観た。JNNネットワーク協議会大賞作品「イントレランスの時代」(2月7日 毎日放送)である。自閉症の子供を持つRKB毎日放送記者の神戸金史氏が、相模原の障害者施設殺傷事件の植松聖死刑囚や在日特権を許さない市民の会の”憎悪と不寛容”を批判する内容である。

 

タイトルのイントレランスとは不寛容の意であるが、無声映画の大作、「イントレランス」(1916年 私は未見)という古典にあやかって箔を付けたかったのであろう。植松死刑囚や在特会を不寛容とレッテルづけて否定する不寛容さは正にリベラリストに見られるダブルスタンダードだが、そこを指摘するだけでは対岸に立つに過ぎない。もう少しだけ突っ込んだ考察をしてみたい。

 

そもそも、まともな社会人なら寛容でありたいとは思うわけだが、人間というものはデフォルトとして不寛容なものだ。寛容とは異質なものを許容できる態度だが、それは自分本来の立場を危うくしたりもする。ちょっと飛躍して聞こえるかもしれないが、コロナ禍におけるゼロコロナ思想が正に不寛容による防御姿勢だろう。対してウィズコロナはより寛容な態度と言える。もちろん私は後者を選ぶ。

 

リベラル政党にゼロコロナを訴えるものが多いが、それは彼等の考え方の癖である。「差別をなくせ」「核廃絶」などもゼロ××という思想だが、これらも彼等の主張だ。底辺層の理解力にも訴求する主張だが、それは本当は彼等も否定したいステレオタイプな思考の筈である。何故ならその紋切り型の判断が差別を形成させるからだ。

 

実は彼等は、弱者を救うために(その動機は良い)弱者にも分かり易い(紋切り型)主張をしなければならないという矛盾を抱えているのである。階級闘争などと言うと、いつの時代だと思われるかもしれないが、彼等の階級間を分断して対決するという構図は変わっていないのである。

 

番組に戻ると、植松死刑囚は「(心失者≒意思疎通の出来ない障害者を)人間として70年養う為にはどれだけの金と人手、物資が奪われているか考え、泥水を啜り飲み死んでいく子供を思えば、心失者の面倒を見ている場合ではありません」と神戸氏への手紙に書いている。一見、弱者切り捨ての思想と見えるかもしれない。

 

私は植松死刑囚の犯罪行為はもちろん支持しない。だが、上述の文章には弱者切り捨てとは言えない思想は見て取れる。それは「泥水を啜り飲み死んでいく子供を思えば」という部分だ。それは充分に救われるべき弱者であるのに、トロッコ問題での功利主義的回答(5人を死なせるぐらいなら1人を犠牲にしよう)と同種の考えだ。より現実的な想定をするならば、ヤングケアラーは救われなくて良いのか?という話にもなるだろう。

 

在特会ももちろん私は支持しないし、品の無さが明確に嫌いである。だがその動機には理解できる部分もある。彼等の活動に批判的な活動を加えるカウンター(番組では伏せられていたが「レイシストをしばき隊」だろう)も同様に品の無い活動をしているわけだが、番組では肯定的に描かれているのだ。

 

そもそも在特会はニュースで流れる韓国の反日運動(これも品が無い)のカウンターとして登場したはずである。同じようなことをしていながら一方は肯定され一方は否定される。在特会のこの恣意性に対する憤りは、私も充分に理解はする。おそらくリベラリストにはかなり明確な正義があるのだろう。その正義を擁護するためならダブルスタンダードという恣意性も肯定できてしまうのだ。

 

しかし論理は破綻してしまう。正義vs論理。私ならもちろん後者を選ぶ。ところがリベラリストは前者を採るのだ。それは彼等の人間中心主義故だろうか。正義と言ったが、それは人間にとっての正しさである。対して論理の中では正義どころか人間自体が客体のひとつに過ぎなくなるのだ。

 

論理の持つ俯瞰的な視点こそ、私が正義を見出す原点だった。それはおそらく多くのリベラリストもそうだっただろう。だが、私は論理をずっと道連れにしてきたが、そこには人間にとっては冷酷な事実もあったわけである。自然界の弱肉強食の例だけで充分だろう。おそらくこのあたりでリベラリストは論理と袂を分かつことにしたのだろう。そして彼等は仲間を大切にするようになったのだと思われる。

 

番組に戻ると、登場人物がきれいに色分けされていた。神戸氏、カウンター(しばき隊)、阿部岳記者(沖縄タイムス)、石橋学記者(神奈川新聞)、安田浩一氏(ジャーナリスト)、パギやん(歌手・在日二世)…>>>>>>>>>植松死刑囚、在特会、日本第一党、桜井誠氏(同党党首)、百田尚樹氏(作家)、佐久間ごいち氏(川崎市議会議員候補)…仲間と敵をしっかりと分け、見事な分断をつくっている。

 

また、障害者、朝鮮人を個人を無視してひとくくりにして差別しているとして植松死刑囚、在特会を批判しておきながら、在日朝鮮人、沖縄の声をひとくくりにして日本人、本土人に異を唱えているというレトリックは如何なものだろうか? 私の知る在日朝鮮人や沖縄県民はそんな意見に同調していなかったが、このひとくくりにすることは差別にならないのだろうか。

 

神戸氏を始め番組関係者、リベラリスト諸氏(ひとくくりにしてしまったが例外もいて欲しいと思っている)は、どこかで方法論を間違ってしまったのではないだろうか。動機の原点はおそらく私も同意できるものも多いと思うのだが、分断をつくって対岸をひとくくりにして否定するやり方では賛同するものは増えはしないだろう。