笑いが大衆文化であるならば傷つく人もいるだろう | ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

些かタイミングを逸したようだがオリンピックの「不祥事」第二弾について述べたい。言うまでもなくオリンピック開会式の演出責任者、佐々木宏氏が芸人の渡辺直美氏に豚の耳を付けて登場させる提案をしたというものだ。これが渡辺氏を侮辱したものとして批判され、佐々木氏は謝罪し辞任した。

 

この問題は一年前の仲間内のグループラインの中での調子に乗って出した案に過ぎず、今頃リークされることの方が(辞任という結果に繋がった事実もあり)意図的なものを感じるが、そこは省略する。渡辺氏のYOUTUBE「今回の騒動について」も参考にしながら豊満な身体を持つ彼女に豚を演じさせることについて考えたい。

 

 

 

 

まず、第一弾の森元会長の「女性蔑視」を問題とするような事なかれ主義のオリンピックの催しであるなら当然この案は不適切だ。それは未然に処理出来ていたわけだ。だが渡辺氏は「今回の騒動について」で佐々木氏の案を全否定している(6分~)。これをもって、やはり渡辺氏本人が傷ついているのだから豚を演じさせるのは侮辱だとする意見がワイドショーなどで見られる。

 

これについては渡辺氏の発言も含めて丁寧に読み解いていかなければならない。まず、渡辺氏は単なる発案レベルのものに対して批評するのは早過ぎたとは言えるだろう。「意図も分からないし、私が豚になる必要性ってなんですか?」(6分30秒~)と言うのだが、これはもちろん、オリンピックをもじってのオリンピッグだから豚である意図があるわけだ。

 

それが思いのほかカッコイイ豚になったかもしれなかったが、それ以前にMIKIKO氏という演出メンバーから聞かされていた案にぞっこんだった(1分~)ようなので、その落差で必要以上に否定したようにも思える。私も佐々木氏の作品(例えばソフトバンクの白戸家シリーズ)に特別感想は持っていないのでこれ以上擁護するつもりもない。

 

そしてコメントやツイッターでの「芸人の渡辺直美なんだから絶対にこの豚っていう演出も楽しくやってたと思うよ」(5分30秒~)という意見にも異論を述べている。これはテレビなどでの芸人仲間に多く聞かれた好意を持っての意見でもある。だが彼女は、以前はそんなこともやっていたが現在はもっとポジティブな表現をしたいと思っていると言う。口の悪い人なら「芸人を卒業してアーティスト宣言か」と言われそうな感じである。

 

彼女の言うポジティブな表現とは、それを見て傷つく人を作らない表現ということのようだ。そもそも今回の騒動ですら傷ついている人がいるだろうし、この議論をすることで傷つく人もいるから議論もしない方がいいと言っている(11分40秒~)。このブログも否定されるだろうが、私には異論があるので言わせてほしいのである。

 

私も劣等感を感じて生きていた者として言うのだが、彼女もその痛みはそんなに昔に捨てられたわけではないのだろう。だからこそ、いま現在同じ痛みを持っている人たちに辛い思いをさせたくない。そのためには、そんな笑いから変わっていくべきだと理想論を語るのだ。それはそれでいいと思うし彼女はその方向で進めばいいと思う。だが2021年だろうがどんなに時代が進んでも、そんな笑いはやはり必要とされるのではないかと私は思うのである。

 

私は美大卒だが、普通の人にとっての絵とはせいぜい印象派までで、あとはラッセンみたいなのになってしまうだろう。これを読んで頂いている貴方も悪くないと思っているかもしれない。だが美大生にとっては(少なくとも私の時代は)ラッセンなんて全く論外だった。しかし、ああいう分かりやすい絵は多くの人には馴染みやすいものなのだ。おそらく笑いについてもベタなものは永遠に続くのだ。みんながみんなセンスが上がっていくわけではないのである。

 

センスのない人を切り捨てていけるアートならいいかもしれないが、笑いの世界では残っていく侮蔑的な笑い。渡辺氏が辞めても、それを継ぐ芸人は出るのだ。そして彼女もそうだったように、最初は単なる豚としか見られなかった人が見慣れていくうちに親近感も湧き、それ以外の個性も見られるようになるのだと思うのである。漫才のアインシュタインの稲田氏なんて相当の異形の持ち主だが、好感度は着実に上がっているだろう。

 

もちろん彼の傷も深いと思う。だが、傷つくことがそんなに致命的なことだろうか? その痛みをなんとかしようと努力せざるを得ない状況があって、人並以上になっている自分があれば幸せではないか? ”艱難汝を玉にす”なんて過去の遺物か? 見慣れること。これが個性に気付かされる最短の手段だと思う。差別や偏見を考え半世紀生きてきた者としての感想である。