メカオタクのスギモトくん(あだ名が”スギモトくん”という変なコ)が久しぶりに大阪に来ていたので、一緒にごはんを食べに行った。

彼のリクエストが明石焼きだったので、近所の店で”おやじ焼き”を食べた。
$まこさく かく語りき
上にうずら卵の目玉焼きがのってて、目玉オヤジみたいだからおやじ焼きというらしい。。。

さて、今回の話題は電子書籍の著作権について。
おやじ焼きつまみながら語り合う。。。。

最近発売されて話題のiPad。これに伴って電子書籍がやたら注目されているが、紙媒体の書籍と比べ、内容の複製が容易になるのでは・・・?という疑問が上がった。

紙媒体の場合、全頁複写には手間も時間も掛かるが、デジタルデータの場合はノープロテクトだと簡単にコピーできてしまう。し、プロテクト掛かってても、外せるツールか何かが裏で出まわらないとも限らない。専用アプリで見る場合でも画面キャプチャすればコピーできるし・・・などなど。。。

スギモトくん曰く、「コンテンツにお金払う文化でなけりゃ、プロテクト外せるツールはいずれ出回る」とのこと。

”コンテンツにお金払う文化”ねぇ~
どこかの自治体がMicrosoftのソフトをコピーして使用してた事件があったけど・・・
ソフトやコンテンツにお金を払う慣習が日本にあるのだろうか。。。

日本における著作権の認識が低いのは、有形資産に執着する文化故ではないかと思う。
家や車にお金をかけても形のないサービスなどにお金をかけないのと同じように、無形物に対してお金をかけないのは、モノ(有形物)への執着が強いからではないか。。。

ならば、作品(コンテンツ)は、紙媒体などの有形物として販売する方がよいのではないか・・・と思ったりもする。

今後益々進化していく情報化社会において、コンテンツ(無形物)にお金を掛けない慣習のまま経済発展を望めるのであろうか。。。。
前回の「玉欄」に続いて、今度は「錆びる心」(桐野夏生著)を読書。
短編集なので一気に読んでしまいました。

印象的だったのは、最後の「錆びる心」。
夫との生活を耐え忍びながら10年間家出の計画を企て、夫の誕生日に家出をする主婦(絹子)の話です。

絹子は、黙って、夫に気付かれずに家を出て行くことが夫への復讐と考え、実行までの間の綿密な用意周到で家を出て行くのです。(完璧でちょっとコワイ)
しかし、マンションを出るとき、律儀に近所の人に別れの挨拶をして去るところが、どこかお茶目で復讐を企てる女とは思えないのです。(どこ行くつもりなの~って感じ)

復讐のために家出をしたことを、「自分の存在を植え付けたかったのだ」と他人(住み込み先の息子:靖夫)から指摘されてようやく自分のしたことの意味を理解する絹子。

靖夫は余命数カ月。自分を慕う無垢なミドリに対して「僕を失う悲しみを植え付けたいという衝動がある」と語る。それは他人だからできることだと。

「自分の存在を植え付ける」ことは、時として残酷だと思うのです。
自分が居なくなることを承知で、人の心に自分の痕跡を残すというのは、自分というキズを人の心の中に残すようなものだと・・・思うのです。

家族に限らず他人でも、大切な人であるなら、痕跡(キズ)は残したくないです。
大切な人の将来を考えれば、心にキズを残すのは残酷過ぎますから。。。

でも、人と関われば、多少なりとも人の心に自分の痕跡が残るわけですから、全く残さないというのも難しいことです。ただ、大切な相手に対しては自分をキズとして残したくないですね。。。
なんとなくタイトルに惹かれ桐野夏生の『玉蘭』を読みました。

東京での生活に疲れ、「新しい世界で何かを始めたい。新しく生まれ変わりたい」、とすべてを捨てて上海での留学を決意した主人公。そこに70年前この上海で生きた大叔父が幽霊となって登場する。
現在に生きる主人公とその恋人との愛と、70年前の大叔父とその妻との愛を対比したストーリーです。

恋愛観はさておき、 ” 『新しい世界』などはどこにもない。それはつまり、世界の最果ての地にいるだけなのだ。もし本当に新しい世界に行きたいのなら、さらに知らない場所に行き、果ての最前線に行くしかない。 ” という大叔父質の言葉にグッときました。。。

主人公と同じように、「新しい世界で何かを始めたい」と上海留学を考えたことがあったからです。。。

この小説を通して、”新しい世界などどこにもない。世界の果てを真っ只中に変えて生きていくしかない”ということを諭された気がします。

結局、どこへ行っても同じ。自分で、自分の世界を真っ只中にしないと何も変わらないわけなのです。

ただ、激動の上海を生き抜いた女性の逞しさには、いつも魅了されるものがあります。
どんなことが遭っても生き抜こうとする大叔父質の妻浪子の強かさには、奇妙な魅力を感じるのです。