昨日は父の葬儀を執り行いました。

亡くなったのは24日の夜でした。その後、葬儀社や菩提寺の住職と日程調整をしたら、昨日になったのです。家族葬なので、一日葬です。

1週間以上間が空いたので、ゆったりと準備ができるかなと思ったのですが、時間があるせいか、あれもやってあげたい、こういうこともしてあげたいとどんどん欲張り、結局前日までバタバタな1週間を過ごしました。

それでも、本人が好きだったもの、大事にしていたものは持たせてあげられたかな、と思います。

お供物は、大好物の瓶ビールと麦焼酎とおせんべい。
お棺の中には、お気に入りのジャケットとアスコットタイ。

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そして、もともとスポーツが好きで、歳をとってからはボウリングに毎週通っていたので、ボウリングのグローブを新調してあげました。実はボウリングに行かなくなってから、月日が経っていたのですが、試しにリーグ戦に参加していたボウリング場に連絡をして確認したら、ものは残っていなかったものの、色味について記憶を頼りに連絡してくださったので、そのグローブの組み合わせで準備できたのです。本当に感謝です!

あとは大事にしていた将棋の駒を、王将・飛車・角を入れてあげました。私の記憶では祖父(つまり父の父親)が作ったものだったはずです。

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喪主挨拶をするために、ちょっと自分の日記を読み返しました。喪主挨拶はあまり時間がなかったので、簡単に済ませましたが、そこで思ったことをつらつらと書こうと思います。

10年前に母が脳梗塞を起こし、父が介護を始めました。私や妹は最初から施設を頼ろうと思っていましたが、父は「俺が看る」と言い張りました。そして超ヘビースモーカーだったのに「俺が先に死ぬわけにはいかない」と言って、たばこをやめました。そして、家事さえもほとんどしたことがなかったのに、かいがいしく介護をしている姿に驚かされました。やっていたのは掃除洗濯だけで、料理は私や妹が週末に行って作り置きしていましたけど。(^^;

2年前、母が転んで骨折しました。入院したら1か月後に脳梗塞を再発しました。その結果、右半身の麻痺が進んでしまい、自宅介護は無理だと判断し、施設に入りました。父は母が帰ってくることを心待ちにしていたのか、そこから気力が落ちたように思います。介護がなくなったので、体力が回復すると思っていたのに、そうはなりませんでした。

母が骨折する少し前くらいから、最低週に1回は行っていたボーリングさえ諦めちゃってました。実はそこから、どんどん体力が落ちていたのかもしれません。

結局、直接の原因は肺でした。たばこはやめたものの、それまで50年以上の積み重ね(?)があったのですから、影響は大きかったのでしょう。

一昨年末、このときが初めての入院でした。このときは、誤嚥性肺炎という診断で、退院は翌年の2月末

そして、つい先日の3月6日に再度入院しました。肺炎があり、胸水が見られました。胸水を排出する処置をしていただきまして、19日に担当医から病状説明を受けました。自分の口から食事を摂りたがるけれど、実際にはむせてしまうため食べられず。栄養価の高い点滴を受けることとなったので、「長期療養になる可能性が高い」と言われました。そして長期療養用の病棟へ移るための説明を受けました。さらにいくつか検査をした後、病棟が空いてからの移動と言われました。

23日の夕方、病院から電話がありました。呼吸が苦しそうになっているが会いに来るか、と。妹夫婦と一緒に電車で掛けつけました。そのときは、まばたきもしていて、大きな呼吸器を付けていましたが、なにか話したそうに口を動かしていました。オンライン面会だったので、あとから看護師さんが教えてくれたのですが、装置を付けられて腕は動かせなかったものの、画面の外で手を振っていたそうです。なので、急なことはなさそうだね、とちょっと安心してそれぞれ帰宅しました。

翌24日の夕方、また病院から電話がありました。呼吸だけでなく血圧が下がり始めたので、昇圧剤を投与したとのこと。妹に連絡して、私が先に動き出しました。電車で移動を始めた途端、予約していた2時間後のオンライン面会の時間では間に合わないかも、という電話までかかってきました。でも都内から移動すると、そのくらいの時間はかかります。妹は休日出勤で仕事中だったのですが、途中で抜けてきてくれました。電車のタイミングが悪く、途中で乗り換えたところで妹に会えました。恐々ふたりで病院に掛けつけ、段取りどおりにオンライン面会をし、「すぐに病室まで上がる」と言わされました。。。どうやら、こちらから病室に行きたいと言わなければ上がれない段取りのようでした。それから病室に行きました。

正直間に合ったのかどうかわかりませんでした。一応間に合ったということにしたいと思います。しばらく看護師さんと話してから、医師が呼ばれ、死亡確認がされました。

結局大げさな機械を付けたのは2日だけ。30時間くらいでしょうか。本人があまり苦痛を感じないで済んだのがよかったかな、と思いました。

亡くなる前日、なにを言いたかったのか気になりまが、今ではもうわかりません。でも、前日に3人そろって顔を見て、声を掛けられたのはよかったと思います。

24日のときは、移動する直前に父の妹(叔母)にも電話していました。叔母は父の兄弟の中で司令塔みたいな役割をしてくれるので、他の兄弟全員に連絡してくれました。そして、すぐに動ける叔父もやって来てくれました。最後に一目会うことは叶いませんでしたが、その後葬祭センターまでついてきてくれて、やっとみんなで対面できました。

あっけない幕切れでした。バタバタしながらも、あっという間の1か月でした。

この1週間ほどは、妙な緊張感が続いていましたが、今日からは落ち着いて、普通の生活に戻ろうと思います。こういうとき、フリーランスだと(私の場合)ボーッとしてしまいそうですけど、今は会社員だから次々仕事が飛んできて、ボーッとしないで済みそうです。(^^;