初伝、一ヶ条 | NeoMackey_ITpro&古武道のブログ

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壱ヶ条

30本(技名の直ぐ後のカッコ内は受けの攻撃の形)、令和3年1月現在、武田時宗氏制定の形を昇級昇段審査技として活用。

受けの基本は右手を先に使う形(現代風に変化されている)を利用している、正面打ちを右手で斬り込む形にしていると言う事。稽古時は左右の手をもって攻撃を行い、臨機応変に体が対応できる様に行う事。

 なお、技の一言コメントや槇原伝は指導師範により異なる事が考えられますが昇級昇段審査時は細かい差異は問題にせず、練習量の多寡や修練度を見て審査されます。細かい理合いの差は云々しない。ただ他武道、特に近代武道の理合いは殆どそのまま流用が利かない事が古武道に多い、稽古者は自分の持つスポーツ理論、雑誌等の受売り、偏ったスポーツや路上での格闘などの、浅い理解で稽古が停滞せぬように。

形稽古の時に攻撃者の事が様々な説明がされる事も有りますが、こう言った攻撃に対しての対応方法が示されていると言う話が出て来る事が多いですが、おそらくはそれは初心者や、門外漢にも解り安くする為の方便だと考えられます。

よくよく見ると、攻撃者は何処か理不尽な現実離れした状況が発生しているのが、少し知恵のある者からすると見て取れます。形稽古における敵対者は概ね後付だと想定して、それでもそれなりの防御や対策としても効果が、ある程度は有るでしょう的に見る方が良いのではと思います。形の本質はその流派が大事にしている体の動きを自然に身に付ける為の訓練方法を抜粋して、時には少し派手な形で覚えやすい様に工夫された物でしょうか、それをくり返し繰り返し行う事で、余計な力を抜取り、また一見不自然に見える動作を難なくこなす身体造りをしているとみなされます。素人程形に万能性を求めますがそれは少し無理が有ると考えます。ただ逆に全く攻撃者はその攻撃の意図が無い所まで考えを広げて完全に身体造りの体操になってしまうと、古流の生死をかける武道の稽古方法としてはやはり何かのエッセンスが欠落した稽古法になります。この敵対役の攻撃力を何処まで標準化した物かの前提により、理合と言う物が変化します。

 私の前提としては、江戸時代の平服、鎧兜を着ていない状況で、術者は太刀を抜く暇が無かった素手に近い状況で、攻撃者は基本は太刀での形の理合での稽古法とみなしています。

 ここも、修行者によれば、鎧兜とみなす方や、こちらは何らかの武器を持っている、素手、平服、等など前提が混在したりします。

どれが正しいでは無く、どの前提でどういう理合を研鑽したり身に付けたいのかに寄ります。万能を求めるのは幼稚な精神が成す術でしょう!

 初心者、初伝、中伝、奥伝と簡単に思えている技の古人の術理理解を深くしていく心掛けが大事かと思われます。例え自分の尊敬する師や先輩の言で有っても鵜呑みにせず、その言葉の真理を追求する事が道を極めていく方策でしょう。