受けの人の正面打ち考察
長文です。また考え方は十人十色で結構ですが一つの指針にはなるでしょう。
一本捕の様な、刀で上段から斬り込んでくる形の攻撃に対する技が古流ではよく出てきます。
こういう古流の形から学ぶには、技に万能性を求める幼稚な思想をまず止める事から開始する必要が有ります。どんな人がどの様な形でも腕を上に振りかぶって攻撃してくる様な形に対して、必ず対処できると言うのは基本は有り得ません。有る程度の平均的な形をまず習っているのです。
幼稚な人はここで、それなら駄目だと直ぐに言いたがります、そして自分だけの優先ルールの形の方で効果が有るものを基本的な形と言いたがります。それぞれの武道やスポーツにはやはりルーツが有ります、そのルーツに出来るだけ従った方が真の形に近づきます。
例えば近代スポーツの方が有名で身近であり、また実際に活動経験が多いので、そのルールが一番正しいという言い方をしたい人が実際には多数です。自分が経験したことが一番でそれから出てきている事が至上だという狭い理解です。
また呼び方を近代スポーツ武道と言えば本来良いのでしょうが近代武道とか、時には武道と呼びながら、戦後のスポーツ化してきた、しかもルールに多くの海外の人間が関与した物を、武道の標準として考えている方々が多いのが事実でしょう。
スポーツは勝ち負けを一定のルール内で競うという形が普通です。そして第三者もお互いが傷ついたりしない前提の所にルールを置きます。これは平和な世界か、もしくは体と精神力を有る程度鍛えるという目的の為には仕方の無い事です。全否定しているのではありません。あくまでも様々の前提が存在してその上でのルールを守りながら行っているという事です。
しかし古流の元々の考えや、様々な実戦が大前提の部分を、少しでも考ええる場合は、攻撃形態にも一考して行わないと意味がありません。
話を元にもどしますと、日本の合気道系や柔術と呼ばれる形稽古で正面打ちというのがあります。これが多くの場合素手対素手で稽古される為に、変容している様に見られます。片手を頭の上に振りかぶってその手刀で相手の顔面、もしくは頭上を攻撃する形です。
この形を教えると、どちらかというと格闘技要素の強い武道から来ている方は思い切り突っ込んで来たり、体当たり気味にこの攻撃をしようとして、それを受けられない指導者や有段者を見て、何の役に立つの?と思い、またある意味馬鹿にしてまともな練習ができにくい傾向があります。
逆に武道経験の少ない人や女性においては、自分の立ち位置を全く変えずに、手を頭の上ならまだしも耳の横あたりまで振り上げて、その手を空いての顔面の近くに、振るという動作で正面打ちをします、届いていない事も多々あります。これと同様な現象が、自分より上位の先生や先輩方に対しての正面打ちは手だけで重心は自分の後ろにおいたまま手打ち(なんの攻撃意欲も無い様な手の相手に振り出すという事が有ります。これとは逆の状態ですが、指導者や先輩格の人が女性や超初心者に対しても、意地悪をしないために、形の形を教える時に発生する形にもよく見られる事です。これも形の形の手順を教えている時期にある事です。まず、本当の手順を覚えていただく為に面前から振り出された手をこういう様な形で受けて、そして次の動作として、これこれこういう風に足を運んで、次にこの動作をしますという、本当の形の形の手順を覚えていただくには、初心者や攻撃意欲の薄い人達の手ほどきレベルでは全く意味が無いとは言えません。
しかしこれでは当然理合いなどを学んでいくとか、その流派の体を作り込んで行くという事からは程遠い練習方法という事になります。
逆に前述の様に、思い切り体重をかけてある意味猪突猛進に突っ込んできて、手だけを上から振りかぶっているというのはこれも意味が違います。相撲のブツカリ稽古や、ラグビー等のタックルの練習と勘違いしているのでしょう。それが力を強く出すという意味と思い込んでいると、これもやはり意味の無い練習方法と言えるでしょう。
このあたりの事を最初からあまり説明しすぎると、いわゆる注文の多い攻撃方法を強いられていると勘違いして、その形でその方法で無いと技が出来ないのですか?と逆の質問をしたり、学ぶ姿勢になっていない事に気が付きません。
という様なジレンマから多くの指導者や先達は黙って技をかける努力をするか、もしくは本来とは違う理合いの技を相手にかけて、その学ぶ姿勢の無い人を納得なせようとします。しかし逆らうつもりの人はその意味も理解せずに自分勝手な範囲の自由度を使い逆らうという事を行いだす者もいます。まず学ぶ姿勢としては、習いに来ているのだという事が第一でしょう。
攻撃の方法を習えばそれに従うべきで、その意味は徐々に教えてもらえるか、もしくは自分で研究してなぜそういう形なのかを考えれば良い事です。おそらく昔の武道家達はそれが解っていたのでそれに沿った練習が成立していたのです。
江戸時代においても日本の武道の武器のメインは本当は剣や刀ではありません。それは戦国時代に登場して勝ちを収めてきた多くの武将が証明してくれています。鉄砲や戦国末期でも大砲も使われています。
白兵戦でもまず長い槍、薙刀、等相手から距離が有り殺傷能力の有る物が有利なのは簡単に検証も出来るでしょう。いやいや日本の刀の威力はすごくて、兜割も出来ると言いたいのは理念や理想の部分では分からないでもありませんが、江戸時代でも簡単に人殺しは出来ず、刀を本当に抜いて立ち会うなどの経験の無い武士も多数いたはずです。様々な文官が活躍もされており、その事務方の仕事だけでもこなすには膨大な時間が費やされており、今と同じ政務につけばその仕事は多く机の上でしょう。おのずと武士も剣や刀を振り回している時間はそんなに無い事が想像で理解できるでしょう。
剣や刀はその技術のみでは無くその技術を磨く為の、体の使い方を覚える事が様々効用を見つけて伝えてきていると考えた方が良いでしょう。刀を大小指すのは武家にしか認められておらず、剣技は心得として訓練したとみるのが妥当でしょう。多くの武士は一つの教養として身に着けていたという事です、健康と心身鍛錬の為です。まず刀の締めている位置は武士にとって何かを考察してみましょう。
次に、一度真剣を持ってみればわかりますが日本刀は良く切れます。同じ系統の刃物で和包丁の切れ味のよさは日本人なら皆さまご存じの世界です。それを相手も持っていて、よほど力量に子供と大人の差が無ければ、体当たり的に突っ込んだりはしません。簡単に切り傷を付けられます。逆に、手だけで振ると、料理経験があれば鶏肉でもわかりますが、骨付きの物がそんなに簡単に切れません。その上まだ、スポーツでは無いので相手は時により多数います、横から攻撃されても当たり前の前提です。必ず一対一で必ず立ち会うなどというのは近世の誤解でしょう。
この様な前提を考えて敵に対して正面から一太刀を振り込むには、腰も据わり相手に攻撃出来て、しっかりと切り込む姿勢が必要です、手だけを振り回すのはあり得ません。また体制を崩して突っ込むのは多人数を相手にするとこれも一目でわかります。技をかける時もかけた後も姿勢が傾いている様な技は当流や日本武道ではあり得ません。
進化したスポーツや見世物のパフォーマンスではあるでしょう、見た目の派手さや見ている人の為にやられ役が存在していてくれるからです。
刀を軽く振り回そうとする人もいますが、ほんの少しでもかすり傷も負わずに相手だけを切るという事を目標にすると剣道の様にやみくもに竹刀を振り回す事もあり得ませんし、無駄な労力は極力しないに越した事が有りません。
最低でもこれ位は頭に入れて相手を切って見てください、形だけです。おのずと正面打ちの形が浮かんできます。ここでもう一つ頭に入れて置いた方が良い考えは、特定の剣の流派の教えをここに持ち込まない様にする事です。
剣の流派ではかなり猪突猛進に相手に突っ込んで、打ち負かすという精神を鍛えている流派や、肉を切らせて骨を断つのだという様に攻撃テクニックのみで守りのテクニックが低い流派も存在すると思います。それぞれの始祖の考えや時代においては、それはそれで貴重な継承があるので今まで残っているのでしょうが、それを一般的な形にまで持ってくるのは不合理があるという事です。 もし、皆さまが何かの剣や刀の流派を学んでおられればその特徴や特質をしっかりと理解されると共に、皆様方が戦う相手の一般例を考察して練習してください。ここも勘違いされる方がおられますが、あくまで我々は剣の理合いを生かした体術を表現しているのであり、剣そのものを学んでいるのではありません。理性のお持ちの方はここも一歩引いて、自分の剣と柔術とは深い関係はあるが、そのまま同じでは無いのだという事も理解されれば、柔術理解の次元も一歩上がるでしょう。
実技的には、左足を半歩進め右足を進めると同時に上段に(大上段とか竹刀の様に頭の後ろまでではありませんが)振りかぶり、その剣先3寸が相手の額に届く距離に踏み込む、ただし前のめりではダメで身体の真ん中に重心を乗せる、どちらかというと後ろ脚に乗っている位の感覚で、相手の面前を前から切り込む、決して真上からたたき落とすのではありません、上からたたくと剣では無く斧で薪を割るとか土を耕す方向に力が出ていて面前の相手に対して力は出ていません。
このあたりの形を練習の攻撃の基本として、十分に行った上でもう少し突っ込み気味に来る流派の研究をすれば良いでしょうし、遠目から攻撃して踏み込まない相手等も対処を考えれば良いでしょう。
しかし今多くの方々に見られるのは早すぎる応用練習です。早すぎる応用練習は単に形無しの意味の浅いお遊び練習です、お遊びというのは、そのやっている本人達は基本は卒業して応用が色々と出来るレベルに自分が有ると勝手に解釈している、自己陶酔型の人々が同じような思想の人と遊んでいるに等しいからです。
せめて意味が先に解らなくとも、基礎や基本を百万遍してから次の段階に行かないと駄目でしょう。百万遍というのはそのままでは無く石の上にも三年で、それも三年とは実質毎日行った場合の三年です。そこまで何も余計な事をせずに基本練習ばかりして3年という事です。
現代人は飽き性ですから本当にはここまで我慢できずに様々な勝手な形破りですごい事をしているつもりの古参も、単に横道ばかりそれていて本質の3年もできておらず形崩れを起こしているだけの可能性もあります。これは30年40年やっていても横道ばかりだと同じでしょう。
補足、合気上げの練習も本来の意味は相手を投げる練習方法でもありません。こちらも百万遍この形を繰り返せば、相手の力と直接ぶつからないコツをつかんだり、どのような方角に動くのかを学んだり、自分の腕の力が屈筋に頼らないコツをつかんだり、肩が動かないコツとつかんだり、肘の力を抜く訓練が出来たり、丹田の意識が出来たりします。
このあたりの事を研究すれば合気上げの練習に進歩が見られます。相手を倒すことに躍起になっていればおそらく時間の無駄な練習の一つです。
この合気上げの練習を行えば、柔術の多くの事がつかめる可能性は高くなります。ですが合気に関してはこの練習を繰り返したからと言って全員が必ず出来るとは限りません。中にはこの練習中から合気の片鱗をつかめる人もいるかもしれません。合気は合気が出来る人の手をつかまないと一生出来ないかもしれません。
特に柔術の技術が長けていると本人も受けも合気と勘違いする可能性があります。力が当たりにくいとか相手の力をかわす様な技術が合気と似ているからです。しかし合気は日本武道独特の技術です、中国拳法や空手とは異質な世界に有る物です。
語弊無き様に、空手家、中国拳法家に合気の習得が無理なのではありません。中国拳法の様々な技術は素晴らしい物も沢山あります。しかしそれはその流派独特の体の鍛え方の上にあるので、門外漢が上っ面をまねてもしょせん真似で本質まで出来ているかは疑わしいでしょう。空手家の方でも真摯に基本から大東流をやり直して鍛錬していると身につく可能性は大です、しかし自分の経験していた近代武道をベースの上に大東流を乗せて出来ているつもりは全く意味がありません。横道ばかりにそれて無為に何十年も費やしただけでしょうか?
口伝や究極の技術はやはりそれぞれが伝えてきている中の大事な所を鍛錬しないと理論や他のテクニックでは使いこなせません。一からその門に入るにはやはり一から白帯を巻き、一番末席から開始して、いつまでも先輩は先輩としてみていく姿勢が不可欠です、ただし前述したような横道ばかりそれている先輩から学ぶ技術はほぼありません、反面教師となるだけでしょう。人として年配者や先人をおろそかにしなさいという意味とはまた別で有る事も、ここまでの説明を理解出来ている人なら充分に理解できるでしょう。
先人、先輩、もしくは一時的に師の立場に居た人でも常に師であり得るとは限りません。