長文なので興味の無い方は読み捨てください
心技体に関しましては様々諸説があります。
日本武道館のサイトの中の武道の理念では心技体の単語を以下で使われています。
武道の説明で、武道は武士道の伝統に由来する我が国で体系化された武技の修錬による心技一如の運動文化で、柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道を、修錬して心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、国家、社会の平和と繁栄に寄与する人間形成の道である。
ですのでかなり要約させていただくと武道は
”心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、人間形成の道である。”
ここでの扱いを見ると心技体は一体です。しかしながら他の分野に於いても心技体はよく言われていますが、別々に扱われたり、どれかがどれかより優位であったりと様々な解釈です。最下級な解釈では心は単純な精神論になっていたりして、体や技の足りない所を浅い精神論で頑張れとか、鍛えるとされている所も多々あります。「心技体」という言葉は元々明治時代の柔術家の言葉が語源だといわれます。今でも武道の世界だけでなく他のスポーツでも好んで使われています。
武道という言葉の解釈も様々ありますが、人を殺傷する制圧する技術は格闘技や武術です。そこにその技を磨く稽古を通じて、人格の完成をめざすといった道の理念が加わったものが武道でしょうか、また派生時代と試合形式の有無で古武道と現代武道と明確に区別する場合もあります。武道の理念は時代あるいは組織や個人により様々であり正反対の考え方さえ同じ流派でも存在しています、なのでこれも異論も有り、全ての方の満足のいく答えではありません。
道の追求という点については残心(残身、残芯)などの共通する心構えや、様々な無駄の無い合理的な所作等から茶道、華道、日本舞踊、芸道、日本伝統の諸芸とも関わりを持ちます。
格闘要素の強い武道以外との関わりも考えますと、心技体の要諦がもう少し見えやすくなると考えます。
何事も前提条件とか土台の部分の解釈が違うと議論にもなりません、あくまでも前提条件を設けての考え方です、そうしないと何でも有りのネット上等の様に、かみ合わない論議が多くなります。基本ルールを最初出しているにも関わらず勝手に他人の土俵のサイトに入り込み、自分のルールの範囲で自論を絶対の様に言い張り、他人を誹謗中傷も平気なのは、リベートでも論議をしているのでも無い、幼稚な自己満足だけが有るのでしょう。他人を批判している暇が有れば自己の道を少しでも高める事の方が重要なのは小学生レベルでも理解できます。
今の政治家の論争とか、一般社会における大小様々な議論やはては口喧嘩なども、似たような形が有り、その根底基準の差があるまま行っても不毛で時間の無駄です。
横道にそれましたが、本題の武道の中の心技体を論じるには有る程度の歴史背景も知る必要があるでしょう。諸説あるのでこれも論点が異なる事を戦うのではありませんが、有力な説は明治44年に出版された古木源之助著 、柔術独習書 と言われています。私もこの論、言葉を有る程度参考にさせていただいております。
その中で問「柔術は如何なるものや」に、ひとつ身体の発育の「体」、ふたつ勝負術の鍛錬の「技」、みっつ精神の修養の「心」、現代の言葉と順番は違いますが「心」「技」「体」が出てきます。そして以上三項の修行法は相互関連して居れるを以て単に一つの方のみを研究すべきものにあらず、とも記されています。心技体には優劣や順序は無いと考えるのが妥当でしょう。
また、単なる体操のようなものは意味のない運動であり(全く体の健康に意味が無いというのとはまた違いますが)、興味もなければ利も少ないと言われており、柔術の鍛錬法はいかにして相手を倒し相手の攻撃を防御するかという勝負の「意味」も含まれ、精神の活動も盛んになり智徳の増進も助ける。ワザワザこのような事を書き記すことをされたのは既に明治時代から柔術の本質が失われつつあったとも思えます。著者古木源之助は「四心多久間四代見日流柔術」の教師であると記されています。「四心多久間四代見日流柔術」は伝教大師(最澄)を遠祖とし、富山藩に伝わる古武道の流派です。先人の伝承を正しく伝えたかったのではと思われます。
しかし現代に於いての心技体は、その使われ方は歪曲されているでしょうか? 心技体と言っている人に限って、単純な根性論という事が多いと思います。 精神的にも肉体的にも厳しく追い込みそれに耐えることで力をつけていくだろうという根性やスパルタ主義での鍛錬法が長年はびこってきました、有る程度、自分に対しての追い込みや耐える事は確かに必要です。簡単な事や楽な事に屁理屈をつけて逃げていると、おそらく一生その道は見えてこない事も確かにあります。その為に鬼監督の元に猛烈なシゴキ、絶対的な上下関係で運営されている組織はいまだに多いでしょう、軍隊式の有無を言わさない、そんな指導方法をとっている指導者に限って心技体という言葉を好んで使う傾向があるように感じます。全て否定するわけではありません、これは我々ごとき凡人の経験値からでも確かにメリットもあり得ます。
ただ間違ってはイケないのは裏打ちされた理論もなくただ画一的にスパルタ指導をしてきた事で多くの才能が潰されてしまったのも事実でしょう。
日本で「精神論」や「根性論」が暴走し始めたのはおそらく第2次世界大戦の戦時中だと思います、足りない物資と未熟な戦術を補うための精神論が奨励され、無謀な戦いに突入して多くの若者が命を落としました。無謀かどうかも、これも正しい世界史論をもう一度学ぶ必要も有るのは確かですがこれはさておいて。日本には未だにそうした精神論の文化が色濃く残っていて、スポーツ界だけでなくビジネスの世界などでも同じような光景はよく見受けられます。ビジネスの規模は関係無く、中小零細企業はては個人経営の世界などでも、まだまだおかしい根性論が通ります。「気合と根性で結果を出せ」という様な竹やりで飛行機を落とせる論理ですここまで来るとさすがにおかしいのです。
ですが、元々の心技体を鍛えていくのは普通の生活の我々にとっても大事な考え方だと言えます。仕事でも勉強でも人生でも、本来の自分の力を発揮できていないのは、この心技体が上手く整っていないからだと考える事ができるのです。 バランスが大きく崩れたりどれか一つでも大きく損なわれていると、私たちは持っている力を充分に発揮できなくなってしまいます。
我々は体調を崩したり、心身のストレスが高すぎたり、技術が低く足りなければ、どうしても一部に引っ張られてしまい、力が出し切れません。
これを今風の形にすると(パフォーマンス)=「心」×「技」×「体」
心技体(しんぎたい)とは、心(こころ)技(ぎじゅつ)体(からだ)全てバランスが整ったとき、最大限の力が発揮できるという教訓と考えると解り易いでしょうか?
スポーツ界でよく使われる言葉では、メンタルトレーニング、テクニック、フィジカル(最近は体幹とも)、ですのでいくら体力と技術力が優っていても気持ちで負けていると勝ち負けの世界のスポーツ選手は結果が出ません。 同様に体力、技術、のどれかが劣っていて気持ちで勝とうとして不可能です。「心技体」は最大のパフォーマンスを発揮するために必要な3要素というわけです。おおよそ、この理解で良いのではと思われます。
ここからは少し逸脱しますが、スポーツや若者(子供から成人まじか)の場合は確かに心の大事さも教える必要があります。礼儀、挨拶、我慢、指導者や先輩への礼や感謝、そしてそれを可能にしてくれている家族や親兄弟近所や周りで応援してくれる人々への感謝の気持ちなどです。これは将来社会性と考えると当たり前すぎる事柄なのです、最低これ位は若年層から身に沁み込ませておく必要があります。特に武道は危険な技術でもあり、スポーツでも常人より強い体を持つのはそれで武器にもなるのです。自分が強くなれば成る程この力を正しく使うには、礼儀、謙虚などが大事になるのです。
今の他の教育が技(入試テクニック等に偏っているのはあきらかで、個性教育などとは嘘で形の中の範囲の自由教育とかで本当の自由とか個性教育とは別です。)が殆どでそれで商売(塾など)教育機関が成り立っています。逆の意味で教育委員会の左思想は外部の教育施設や機関の商売を成り立たせており、経済活性化の一翼を担っているのでしょう皮肉な所です。かたやスポーツと言われる分野でも勝ちを目指す為(その先にはプロスポーツで儲けられるという事も有り、推薦入学でも有利に働いたりしています。)、勝ちを取るための自分の努力や体を鍛える為の目先の苦労が役立つという事はなおざりにされています。
ましてや勝つを目的にすると、心の部分で、公正や相手を思いやるとかそういった他者への気遣いなどは皆無でも良い事にもつながります。現代の心技体の言葉の使い方は残念ながら、いにしえの我々日本人の先達の意味とは大きく乖離していると言わざるえをえないでしょう。きれいごとを言って心がけとか志とかを重視しても、たしかに技を優先されたり、元々体の恵まれた者には太刀打ちできないのが、スポーツで勝ち負けを競っている所では顕著なのです。
どこかでこのあたりの論議ではどの世界で考えるのかとか、どの分野のどの世代の話なのかは有る程度分けて論じ、そして指導者も割り切らざるを得ないのでは無いかというのがあります。
ただし理想の心技体を目指すのを止めろとは言いません。こういう現実に沿った意見や論議を出すと、日本型リベラルや、自分の思想に合わない現実は無視するという研究者からは非難轟轟かもしれませんね(^^;
現実の世界に合わせて、今は理想から少し離れて、古木源之助などからはかなり叱責されるかもしれませんが、本来順序無く無意識だされた心技体ですが、順番の逆の体;技;心;として割り切って教育や指導に使うのも良いと思われます。
体はやはり身体造りです、適度な運動をして正しい生活習慣をつけ、正しい食事、睡眠、などは生活の基本ですからそれを重視するのは大事な事です。
技はそのものずばり、その分野の技術です。技術の研究をすれば様々頭の体操にもなり、それがまた生活にも戻り、良い生活習慣は体の貢献にもなります。気を付けなければならないのは技はいわゆるテクニックに偏りすぎたり、些末な枝葉の研究に興味が偏り、本質の部分がおろそかになり易いです。本質とか基本というのは往々にして、やっていてつまらない、退屈な事が多いのが難点です。その為に武術でも直ぐに基本の形からはずれて、応用のこの時はどうするの?またその時はどうなるの?に進みたくなり、まだ基本の基本が出来ていない者や頭でっかちの者程、そういう傾向が見られます、本質の理解にはほど遠いのに分かったつもり出来たつもりになる事です、これは老若男女問わずあり得ます。ここで自分自身を本当に振り返られれば、自分はまだまだ理解が浅薄で、もっと真実は深い所にあるのだと考えらえます。これは心の成長があれば可能です。しかし言うは易く行うは難しのことわざ通り、今まで見ていても直ぐに自分は出来た、自分は能力が高いので人より進んで当たり前などの者が多く、先輩諸氏を見ていても直ぐに天狗になったり、少しの周りのおだてで自己を見失う者は後を絶ちません。
最後に残り、心ですがやはりこれが最も難しい課題でしょう。
ここで話させていただいているのは、心技体は道とのかかわりが有るという事。日本伝統の事柄であり、古武道との解釈にも関わりますが概ね明治初期の江戸時代までに成立している会派や流派がその範囲にあります。近代武道と海外からの流入武道はあまり考慮していません。
前述したようにプロ化したスポーツは興行でもあり、それを楽しませてお金をいただくという事が含まれます。当然、勝ち負けも有りそれがお金の勝ちにも換算されるのです。この世界を否定しているのでは無く、別物と考えるべきです、それをスポーツの世界でも心技体が鍛えられ全て満点に近いのがプロと思わない事です、特にスポーツやプロは技(後から鍛えて)と体(生まれつき)が常人では無いのでそこから生み出される世界を楽しませているのです。心は人により成長度合いや完成度は様々でしょう。
武道の世界でも若年層では試合のスポーツから始まるので、往々にして心は置き去りされがちです。口で格言等を言っても中々中身までは成長出来ていない者が多いのでは無いでしょうか?
できれば武道をして体を鍛え、それに伴い技を向上させて、同時に人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、国家、社会の平和と繁栄に寄与する人間形成のを目指したいのが心技体の道では無いでしょうか!
心を磨くには、書籍、他分野の様々な方からの意見拝聴、多方面の役立つと言われる練習、修行の経験、そして自分自身での実践でしょうか?
特に謙虚さが第一でそれを忘れなければ心の成長は止まらないかと思われます。謙虚さは自分の目上の人だけで無く、同輩や年齢など下の者に対しても持っておかないと駄目でしょう。自分の出会う人全てが先生と思い、出会える物や動物植物、絵画、書、器、全てから学べる事は山ほどあります。