シェル・シルヴァスタイン『おおきな木』 | 町田ロッテと野球散策

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いやぁ、野球って、本当にいいものですね。

毎日20時30分に我が子を寝かせます。これが日課になっています。なおナイターの日はだいたいこんな時間には試合は終わっていないので、我が子がマリーンズ(とヤクルト)の勝敗を知るのは翌朝です。

20時30分からは、絵本の読み聞かせをやっています。読む本は、図書館で借ります。なお、我が子の好きなように選ばせています。したがってトミカとかプラレールとかが多かったのですが、前回はかなりまともな選択をしてきました。10冊中、9冊がストーリーのきちんとある本でした(残り1冊はなぜか『ウォーリーをさがせ』でした)。

昨日読んだ本が、とにかく素晴らしかった…。


シェル・シルヴァスタインの『おおきな木』。1964年にアメリカで出版された本です。おおきな木は子どもと遊ぶことを楽しみに日々過ごしていたのですがやがて子どもは遊ばなくなり、久々にその子どもが来たと思ったら「お金がほしい」という青年になり、「家がほしい」という中年になり、そして「人生に疲れたどこかへ行く舟がほしい」という老人になり…。しかしおおきな木は都度、与えるのです。

「お金がほしい」青年にはりんごの実を売ってお金を得なさい、と。

「家がほしい」中年にはたくさんの枝を持っていきなさい、と。

「舟がほしい」という老人には幹を持っていきなさい、と。


与えて、与えて、与え尽くしたおおきな木は、切り株になってしまいました。


このあたりでもう、悲しいのです。


そして、冒頭の子どもはさらに更けた老人になってやってきました。もう与えるものなんかないのに。


ところが、あったのです。


老人は、「疲れたから休みたい」と。


おおきな木は言いました。

では、腰掛けて休んでいきなさい、と。


最後まで、おおきな木は与えました。


読後、ものすごくいろいろ考えてしまい、我が子さておき読み返してしまいました。


私は、我が子に与えているだろうか。トミカ買ってやってるとかプラレール買ってやってるとかではなく、もっとおおきな意味で、与えているだろうか。


そして我が子も『おおきな木』に出てくる子どもと同じく青年になり、中年になり、老人になります。


…。


おおきな木にはなれなくても、常に伴走していけるように心と身体も保っていきたいと思いました。


与えること、それは関係性という前提の継続。


それにしても中﨑の与四球の数はなんとかならないものでしょうか…。