【日ごとの糧】2024年6月27日 | パスタ〜Kazの「いてくれてありがとう」ノート

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関根一夫の感じていること、気になっていること、そして説教ノート、写真などあれこれ掲載予定です。

【日ごとの糧】(ローズンゲンによる)
2024年6月27日

1喉をからして叫べ、黙すな
声をあげよ、角笛のように。
わたしの民に、その背きを
ヤコブの家に、その罪を告げよ。
(イザヤ書58章1節)

そのときから、イエスは、
「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、
宣べ伝え始められた。
(マタイによる福音書4章17節)
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「イエスはイエス」「ノーはノー」と声をあげることの重要性が
語られています。
そして声にしなければ、結局その沈黙は
不正を是認してしまうことにつながることが多いのです。
マタイによる福音書にある今朝の言葉は、イエス様の最初のメッセージです。
短いですが、悔い改め、方向転換を呼びかける重要なメッセージです。

現実的な世界では、結局、有名な人や声の大きい人が、勝ってしまい
声をあげることによる報復やなんらかの軽蔑を恐れて、それは違うよなと
思ってもそのまま時間ばかりが経ってしまうということがあるように感じます。

ニーメラーという牧師の言葉を思い出します。
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ナチスが共産主義者を連れさったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。
彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員らを連れさったとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。
彼らが私を連れさったとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。
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この言葉を土台にニーメラーの行動をミルトン・マイヤーという人が以下のように語っています。

ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。
それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、
なおも何事も行わなかった。
さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。
そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。 
丸山眞男訳、「現代における人間と政治」(1961年)
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いわゆる社会不安、ウクライナとロシアの戦争、パレスティナにおける戦争、弱者への劣悪な仕打ち、政治家の裏金問題などなど、私たちは何か言葉にしなくて良いのか、問われています。

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歌は「神の都エルサレム」

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Youtubeでの日ごとの糧はこちらです。
https://youtu.be/OisyZ_7maog