*おはようございます。本日のMACFの礼拝はYoutubeのみです。
次回のOCCでの礼拝は7月7日です。
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MACF礼拝説教要旨
2024年6月23日
「アベルの捧げ物と信仰」
ヘブライ人への手紙11章
4信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、
正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。
アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
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アベルとカインの物語は創世記に書かれています。
創世記4章
1さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
2彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
3時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
4アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
5カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
6主はカインに言われた。
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
7もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
8カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
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さて、アベルの信仰とはどういうものだったのでしょうか?
カインよりも優れたいけにえとはどういうものだったのでしょうか?
そして兄弟間の殺人事件の鍵となる出来事ですが:
4アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
5カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
これはどういうことなのでしょう。
あれこれ考えさせられる記事です。
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アダムとエバの間に生まれた最初の子供は「カイン」エバは嬉しさのあまり「私は得た」という名前をつけました。この名前にはすでに何か大事なことが印象づけられています。あたかも「私は自分の力で手に入れた」というような印象です。
次に生まれたのが「アベル」アベルとはカインとは対照的に「息」という意味です。「はかなさ」を感じさせる名前です。
そして月日が過ぎて、事件が起こります。
発端は神様へのささげものでした。
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アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
3時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
4アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
5カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
アベルは羊飼い。そしてカインは農耕者です。
それぞれ大切な捧げ物を神様に捧げました。
そして「神様はアベルの捧げ物に目を留め、カインの捧げ物に目を留めなかった」とあります。
これはどういうことでしょうか。神様がカインに向かって、こんなものいらないと言ったのでしょうか。
いわゆるエコ贔屓したのでしょうか。
一般的には「羊飼いとしてのアベルは捧げ物をささげてから良いことが起こり、羊が子を産み
羊飼いとしては順調な日々が続いた」一方カインはといえば、「農作業も、また穀物の出来具合も
よくなく不作の日々があった」ということではないかと考えられています。
それらの出来事から神様が目を留めたからアベルは祝福を味わい、そうでなかったカインは
辛い日々を送ったというわけです。
前回、信仰とは「託すこと」「お任せすること」という話をしました。
おそらく、アベルは羊のことがうまく行ってもいかなくても、喜んで神様に最上の
ものを捧げる心を持っていたのだと思います。
一方カインは、捧げ物は捧げましたが、うまくいかなくなったことで神様を恨み
弟を逆恨みして、殺意をいだくわけです。
でも、神様はちゃんとカインに警告しているのです。
6主はカインに言われた。
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
7もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
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神様はカインに「お前が正しいのであれば、自分に落ち度がないのなら顔をあげられるはずだ」と
伝え、神様に託し、任せる心があるなら、この不作の時期を耐えて待てるはずではないのかと問うて
おられるのです。
つまり、カインの信仰姿勢は「捧げ物をしたのだから良いことがおこるはずだ」という「期待」だけの
ものだったようです。ですから、その期待が崩れることで「怒り」が爆発したのです。
そして、カインという名前が「私は得た」というものですから、得られないとわかると許せなくなるのでしょうね。神様に対しても人に対しても。
アベルの信仰は期待というより、純粋な感謝と信頼、神様にお任せしているという感じです。「息」という名前通り、自分の儚さを自覚していたのかもしれません。
カインは怒りに任せてアベルを殺してしまいます。彼は信仰によって自分の怒りを抑えることが
できませんでした。神様に任せ、委ねることができなかったからです。
期待がハズレ、比較の中で自分が低い立場に置かれているような気分になると私たちは
憤りや怒りに心を支配されてしまうことがあります。
その対処、その状況から逃れるためには「信仰」によって抑えることを学ぶ必要がありますね。
神の前に「顔を伏せるのではなく」「まっすぐ立っている」状況を意識する必要があります。
つまり、自分の中に怒りや期待外れからの憤りがあるとしても、その状況そのものを神様に
お伝えし、最終的には、神様の裁量に委ねる意識が重要なのです。
イエス様は常に、そこを土台としておられました。
「御心のとおりになりますように」と祈ったのです。
それは「主の祈り」の中でも大事な部分として教えられています。
ヘブライ人への手紙の言葉:
信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、
正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。
アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
これは別に神様がお米よりも羊の肉の方が好きだったのだというような意味ではありません。
むしろ、その捧げ物を捧げる意識、心の内側が大切なことだったのです。
アベルは神様に最善のものを、自分の働きがうまく行っている時もそうでないときも、捧げようという
「喜んで神様に捧げ、神様にお委ねる心」を持っていたのです。
その姿勢こそヘブライ人への手紙で称賛されている「信仰」です。
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