MACF礼拝説教要旨 2024年3月10日 | パスタ〜Kazの「いてくれてありがとう」ノート

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関根一夫の感じていること、気になっていること、そして説教ノート、写真などあれこれ掲載予定です。


MACF礼拝説教要旨
2024年3月10日

「弟子たちの足を洗うイエス」
ヨハネによる福音書13章

1さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
 2夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。 
3イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
4食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
 5それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
 6シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 
7イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 
8ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
 9そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 
10イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」 
11イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
12さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。 
13あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 
14ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 
15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。 
16はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
 17このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
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ヨハネによる福音書には他の福音書のような形での最後の晩餐や聖餐式の制定のような
形での記述はありません。
その代わり、イエス様が弟子たちの足を洗うという出来事が記録されており、その中に弟子たちに求められている生き方、いいえ、私たちに求められている生き方が教えられています。
1)この上なく愛し抜かれた
イエス様はこれまで弟子たちの行動や言葉にがっかりさせられたことがありました。
そしてこれからもユダの裏切りやペトロの裏切りや弟子たちの離反などがあるわけですが、
イエス様は深い愛をもって弟子たちに触れています。
イエス様は自らの役割を理解し、自分がどうなっていくのか理解していました。
ユダの裏切りについても知っていました。

ユダの裏切りについての推測としては彼のなかにイエス様への大きな期待があり、政治的指導者としての姿への
期待があったと言われています。でも、いつになってもイエス様は偉大さや強さを誇示なさいませんでした。ユダに取ってはそれが大きなつまずきとなったのかもしれません。

2)仕える姿勢
私たちの中にはいつの間にか「偉大になる」「有名になる」「人々を支配する」ことを
成功と考える方向性が生まれてきています。「一番になる」「頑張って頑張って大きな集団を作る」ことなどが人生の目標にさえ据えられている場合があります。
しかし、イエス様はこれまでの生き方やメッセージの中で決して「偉大な征服者」になることを宣言したことも、目指したこともありません。
むしろ「仕える姿勢」を大切に教えています。
有名な箇所にマルコによる福音書42-45の中にこう語っています
「あなた方も知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
しかし、あなたがたの間では、そうではない。
あなた方の中で偉くなりたいものは皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人たちの身代金として自分のいのちを献げるために来たのである」

支配することや権力を持つことによって偉くなるのではない。仕えること、自らを他者のしもべとして差し出す中に
希望があるのだというのです。
いわゆるガンバリズムを否定、拒否しています。

3)足を洗う
当時の社会では、特にユダヤ教的色彩の強い家庭では、よく洗いました。手を洗い、体を洗い、足も洗いました。
清めるという意識がとても強かったのです。。
ところが、この足を洗うという作業は、ユダヤ人以外の、つまり、異邦人の奴隷がする役目だったと言われています。
それほど「卑下されていた仕事」なのです。仕事と言っても奴隷には給料など支払われていませんでしたから、
外国人の奴隷たちの役目として割り振られていたわけです。

それをイエス様が実行されたわけですから、弟子たちの間にはざわめきが起こったでしょうし、ペトロは拒否しようとしています。
イエス様にそんなことをさせるなど、あり得ないと考えたのです。
でも、イエス様は、足を洗わせないのであれば、私たちの間には何の関係もなくなることに
なると話したのでペトロは慌てて、それでは足だけでなく、手も頭もと、とんちんかんなことを訴えます。

実は神のひとり子イエス様が人間としてやってきたことだけでも驚くべき出来事ですが、そのお方が脱走奴隷や異邦人の
奴隷がするような所作を弟子たちに見せているわけですから驚くのも当然かもしれません。
しかし、実際は、イエス様は最も深刻な罪人のひとりのように十字架で殺されます。
そこに神の御子イエス様が示した「仕える者」の姿のもっとも深い姿が表明されています。
ペトロをはじめ、私たちも、このイエス様の示された「私たちへの仕える愛」を受け入れることから
しっかり実行しなければなりません。
神の御子が偉そうな、上から目線での救いと助けの提示ではなく、私たちに仕える奴隷のようになって
その祝福と愛を届けてくださったのです。
ここに愛があります。
感謝とともに受け取ることが必須なのです。

4)あなたがたも互いに
イエス様は、この出来事が終わってから弟子たちに、今後の生き方、あり方を提示なさいました。
それは「あなたがたも、互いに足を洗い合うべきだ」というものです。
つまり、聖餐式を儀式として毎月あるいは毎日行って行くことは決して無駄なことではありません。
しかしヨハネによる福音書にはそういう風には教えられていないのです。むしろ「愛し合うように」
「仕え合うように」しかも「日常的に」「人に知られないように」という生き方がなにより強調されているのです。

炊き出しの列に並ぶイエスという木版画がありますが、あの絵の中にも
「日常的に弱者と肩を並べるイエス様の姿」が描かれています。
大きなことを考えなくても、教会を大きく偉大なものにしなくても大丈夫なのです。
むしろ、足を洗うという作業とそれに類する者ができれば良いのだと思います。

5)偉大なものになる・大きなことをする・人生に成功したい
成功についての世の中の尺度とイエス様の教える尺度は違っています。
この一週間、自分にとって「大切なものは何なのか」「何を目指しているのか」
しっかり考え、イエス様からの促しに応えながら生きられるように意識を変えて
いただきましょう。

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Youtubeでの礼拝説教は
https://youtu.be/iuif0ozbOXs

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主の平和と祝福がありますように!

関根一夫