今日は夫の月命日です。
月命日と言っても特別なことをするわけではありません。
お寺からお坊さんに来て頂いて、読経していただく以外は普段と全く変わりありません。
甘いものが大好き、花が大好き・・・だった夫ですから
仏壇にはできるだけ花を絶やさず、好みそうなお菓子をも絶やさず・・・
お菓子は私が食べたいからだとも言える・・・けど(๑>◡<๑)
そして蠟燭の灯りと、お線香と焼香炭の香り・・・
お香そのものは元々好きではあったけれど
焼香炭だけでもいい香りがすることにちょっと感激しています。
読経の後はお坊さんとコーヒータイム
おやつは生八つ橋・・・春らしく『さくら餡』
月命日は私にとって、私自身と向き合う日でもあります。
私も夫も特別信心深くはありませんでした。
私などは、今も然程変わっていません。
ただ過去に葬祭関係の仕事に関わっていたので若干知識は増えたかな?程度です。
まぁ・・・それまで持っていた知識だって、ごく僅かでしかありませんから
増えたと言っても高が知れていますけれどね。
この世に存在するものは、人でも動物でも植物でも
いつかは命を終える日がきます。遅いか早いか・・・だけの問題です。
お金持ちにも私のような貧乏人にも平等に訪れます。
若い時や年齢を重ねても元気であれば、そのようなことはあまり考えません。
斯くいう私もその一人でした。
ある日突然、目の前に突き付けられた時に戸惑う・・・のです。
頭ではわかっていても、覚悟などそうそうできるものではありません。
自分の身に訪れたなら、すんなり受け入れられるだろうか?
潔く覚悟できるだろうか?
考え始めるとキリがありません。
何故生まれ、どう生きるのか・・・とか。
どう思います・・・?
煩悩具足の凡夫たる私には答えなどサッパリわかりません。
私のような何の修行もしていない者が
亡くなったからと言ってすぐ仏になれる訳もありません。
かといって、今から修行しても門前の小僧以下です。
LET IT BE・・・なすがままに・・・ありのままに・・・。
悪あがきせず、今の自分を受け入れることが精一杯。
凡夫は凡夫です。
そういう覚悟だけでも持っていようと思います。
そうそう・・・本来寺院は僧侶の修行の場だったそうです。
その昔は仏教寺院でお葬式をすることはありませんでした。
死は穢れであったためと言われています。
そうであれば神社だって当然葬儀はなされなかったでしょうね。
穢れを嫌う神社ですから。
誕生はもろ手を挙げて皆から祝福されるのに
亡くなったら『穢れ』として片づけられる。
悲しい気持ちを抱きながら死者を送ることが・・・『穢れ』になる。
生と死は必ずセットであるにも関わらず・・・。
葬儀や死者の供養の為に仏教が取り組んでくれたおかげで
宗派は関係なく現在のような葬儀の形があるのだと思います。
今はどんな宗教でも、或いは宗教を介さずに死者を送る葬儀もあって形式は様々です。
自由葬というのだそうで・・・選択肢が多いことはとても良いことだと思います。
葬儀だったり、法事だったり、人の死に向き合う時
命について色々と考えさせられます。
そう思うと、宗教は亡くなった人の供養をするためにあるのではなく
生きている人間のためにあるのだと、この年になって漸く理解し始めたところです。

