「あのすいません一緒に撮影して貰えませんか」
大学病院の入り口で翔子は中年女性から声を掛けられた。
「いえわたしは有名人ではないですから」
そう拒否しても相手の方は理解してるようで何度も頭をさげ
熱望してくる、意識は戻ったが未だ油断できない状態の耕作
なので早く夫のもとへ行きたい。焦りもあったのだろう段々と
強い口調に変わってしまう。
「いい加減にしてください」
強く拒否された中年女性は残念そうに去って行った。
この女性がはじめてではない。握手してくれ、サインを欲しい
写真撮ってもいいですかと今まで何度も頼まれた、頼む人は
決まって30代以上50歳前後が多いのは何故だろうか。
毎回断っているのだが今まで罵倒されたことはない。
一人くらいは「何様のつもり」と言うのが定番なのに皆無という
のも変なことだと翔子は不思議だった。
また病院の廊下ですれ違った看護師がポツリと言った言葉も
気になっていた。”本当にそっくりだわ”と。
一人の看護師が廊下を歩いていた、いくつもの病室を通り過ぎ
左側にある病室、ドア横には”浦地耕作”と書かれたネームプレ
ートが見えるそのドアを看護師はノックした。20代後半の女性
看護師は豊かな胸のせいで首からぶら下げたIDカードが揺らめ
いている。またこの胸のせいで左胸につけられたネームプレー
トも特殊な加工がされ角度を調節できるようになっていた。
”この胸のせいで”
彼女は豊かな胸にコンプレックスを抱いていたのだ。
ネームプレートには志沢と漢字で刻まれている、名は静子。
「浦地さん、調子は如何ですか」
「もうなんともないですよ、手も普通に動きます」
志沢は血圧測定器を取り出して準備する。
「では血圧、測りますね」
測定結果をタブレットに入力しながら質問を続ける。
「あとで先生がこられますがこの分なら退院も近いですね」
「シズシズともお別れかぁ、寂しいな」
「あらそんな事言ったら奥さんに言いつけちゃいますよ」
「い、いやそれは勘弁して」
微笑んで意地悪く言う看護師志沢だったが急に表情を一変
してバインダーーから用紙を1枚取り出し無言で耕作に渡し
た。
「どうしたの?突然真面目な顔になって」
用紙を見ると誓約書と大見出しで書いてあった。大事な書類
のようで病院長の氏名と病院の印も押されている。
「一通り読んで頂き、下欄の患者名のところへ自筆のサイン
をお願い致します」
誓約書には以前この大学病院で起こった著名人の事故死に
関する事を他言しないようにとの要望である。要望と書いて
はあるが実際には厳守事項なのだそうだ。数年前に起こった
この事故は当時マスコミからも取材され多くの日本人が知っ
た出来事ではあるが病院としてはいつまでも過去の失態を引
きずる事はできず抹消したい事故なのである。
一ファンとしてかの御仁の痕跡を消されるのは悲しいが耕作
は現在この病院に御世話になってる身、耕作は承諾し用紙を
看護師に返した。
「ありがとうございます、協力感謝致します」
「いえいえ」
若い女性である志沢は不安だったようで耕作が用紙にサイン
した瞬間、ほっとしたようにため息を漏らした。
志沢が病室を去るのと入れ違いに妻の翔子が病室に訪れる。
「いつも主人がお世話になっています」
翔子は志沢に会うのは初めてではない、毎回微笑んでくれる
志沢だったが今日だけは目線を合せようとせずお辞儀だけし
て焦るように廊下を歩いて行った。
「わたし何か悪い事したかしら」
耕作に視線を移すとハニカムような苦笑いをしていた。
「あなた!志沢さんと浮気してるんじゃないでしょうね」
「まさか、しょこたんがいるのにするわけない」
耕作の目を見ると嘘とは思えない、でも何か隠してると感じた。
それが何なのか翔子にはまったく思いつかないが確かに何か
を隠している。
翔子は一体自分が誰に似ているのか気になって仕方ないが
夫に尋ねてもさらりと躱(かわ)されてしまうし看護師にそれと
なく聞いても知らないという。だがこの後、悩んでいることが一
気に解決する事になるのだが現時点では翔子は予想出来な
かった、そして耕作にも。
「そろそろ先生がお見えになる時間ね」
翔子に言われ耕作はスマホの画面を見ると確かに14時を表
示する。
”コンコンコン”
ドアをノックする音へ反射的に耕作は部屋への入室を許可した
「どうぞ」
病室へ入室したのは医師だった、首に掛けたIDカードと来てい
る白衣の胸元にはネームプレート、短髪でメタルフレームの眼
鏡をかけた50過ぎの外科医師。
ネームプレートにも刻んであるがこの男性医師は教授である。
ただ患者には爽やかな笑顔を見せるが風格は決して出さない
それはこの医師、川上護(かわかみまもる)の信条なのだ。
「いつもお世話になってます」
「いえいえこちらもこれで生活してるものですから」
「患者さんと下らぬ話するのがわたしの趣味を兼ねた仕事なの
ですよ」
翔子は川上教授と会うのは初めてではなかったがこれまでは
挨拶程度しか交わしておらずきちんと会話したのは初めてだっ
た。以前は目覚めない夫のことが心配で他人に干渉する気力
もなかったので無理もない事だった。
嗤いあっている現在はそれだけ余裕があるのだろう。
「奥さんて本当に蓮池逸美さんにそっくりですな」
翔子の笑顔を見て川上医師は声を出した。
「ん?誰ですかそれは」
「知りませんでしたか、てっきり旦那さんから聞いていたかと思っ
てました」
「先生、その話ここでしていいんですか!」
川上医師は少し考えたあと納得したようで話だした。
「ああ、例の誓約書の事でしたか」
「病室内では問題ないんですよ、あれは」
翔子は声を出さず手振りで夫に尋ねるが夫は手を横に振るだけ
他人には理解できないがこの手振りだけで会話が成立していた。
「10年くらい前になりますか当時人気のあった蓮池さんという女
性の歌手がいたのです」
「はぁ、そうなんですか」
翔子はそれだけいい夫へ軽蔑する視線を飛ばした。耕作は無論
その視線を受け止める事はせず流すように顔を背けた。
「ですが・・・」
「何かあったんですか」
「ええ人気がピークの時に事故死して。」
「わたしそんなにその蓮池さんに似てますか」
「瓜二つと言うほどのそっくりさんですね」
翔子は以前自分に話した”雰囲気が似ている”と言われた事を
思い出し”嘘つき”と心中(しんちゅう)で呟いた。
しかしである。現時点で有名人に似ているとしてもファンにとっ
ては青春時代で思い慕った歌手は若かりし姿しかイメージ出来
ない、現役で他界したならばその思いは強くなるのだ。
毎日あう翔子なので耕作は雰囲気が似てると考えるのも当然の
事である。
「実はですね、わたしも蓮池さんのファンだったんですよ」
「奥さんは声も似てるようですし今度歌っては貰えませんかね」
川上医師の要望には応えたい、だが・・・翔子は困惑した。
「歌はその、苦手でして」
「いやいや無理なら仕方ありません」
一通り診察した後、決めていたのだろう。
「退院は今週末の土曜日を予定しております」
「いろいろ有難うございました」
「先生、ありがとうございます」
耕作と翔子は本心から感謝する言葉を発した。
つづく
この物語はフィクションであり実在の人物、団体には
一切関係ありません