三女・華子(門脇麦)は未だ到着していないが一族が集う会食は既に始まっていて、その場にいない三女についての会話が続いている。中居に案内され三女が部屋に入ってきて席につくが、一同の視線は扉に向けられたままで、やがて三女の後から誰も入って来ないことを確認し、次女は「婚約者はいらっしゃらないの?」と三女に問いかける。それを契機に不在の婚約者について一同は話し合い、さらにこれから華子が出会うであろう男性についての話が続く。
このエピソードが示すように、この映画はそこにはいない誰かを巡って物語が展開する。
そもそも第1章ではもう一人の主人公、美紀(水原希子)が、第2章では華子が不在であり、またこの二人をつなぐ良家の御曹司、幸一郎もその存在は希薄で、二人の関係性の中にしか存在しないように思える。不在の男性を中心に据えた二人の女性の物語。
このような不在者を巡る物語は奇妙な緊張感と物語への期待をもたらす。
例えば華子と幸一郎が初めて出会うシーン。
華子は格式ある屋敷のフレンチレストランに赴く。華子がタクシーを降りると玄関先に男性がおり、彼女も観客もこの男性が華子を待つ男性であろうかと思う。ところがその期待ははぐらかされ、彼は別の女性と去り、華子は屋敷の中に入っていく。
階段を上る彼女の後ろ姿を捉えたカメラは、踊り場で彼女の正面へと位置を変える。
続いて、彼女の主観ショット風にレストランの入り口をゆっくりと前進移動するカメラに、華子がフレームインする。そのままカメラは彼女の後ろ姿を捉えていき、目当てのテーブルに華子が案内されると、既に座っていた男性が立ち上がり彼女を迎える。
華子はこの男と結婚するであろう、少なくとも彼はこれからの物語を左右するキーパーソンとなるであろうことを、彼と出会う以前から、私たち観客もそして華子も予感している。
ゴダールはアストリュックを評し「(描かれている舞台装置の外側にある)二万平方キロメートルの中で構想され、書かれ、演出されている」と語る。ゴダールが比喩する空間の広さや距離を、時間や物語といった言葉に置き換えてもいい。
優れた映画には、目に見える画面の背後に、目に見えない物語や時間が重なっている。主人公として設定された人物の思惑や感情や心理を表象するだけではない、大きな物語が語られている。
正直、「階級社会」から自立しようとする女性たち、といった紋切り型の物語を語り始める後半はやや退屈だ。
しかし、上流階級の格式ある所作や、お嬢様が時折見せる「はしたない」所作(ジャムをなめる華子)は古き日本映画への郷愁を誘うし、端正なカット割りや大胆な省略(華子は唐突に離婚を告げる)はやはり面白い。
また、「めまい」「レベッカ」や「ローラ殺人事件」「炎のごとく」といった不在者を巡る恋愛映画としてだけではなく、成瀬やラングのような画面の裏側で暗躍する人物が常に見え隠れする物語、主人公たちの運命を支配する不在者を巡る物語を、階級社会の問題と結びつけてもいいだろう。
「あの人たちが世の中を動かしている」というセリフが、この恋愛映画の中にあって私たちをゾッとさせるのは、不在者がつかの間顕在化し、私たちの運命を左右していることを示しているからだ。
小さなホールでの音楽会で、全員が演者を見つめる中、華子と幸一郎だけが演者から視線を外し、互いに視線を切り結ぶ。じっと幸一郎を見つめる華子のウエストショットでこの映画は終わるのだが、私たちは語られることのない二人の未来や、語られなかった二人の過去のある日がそこにあることを感じる。
そしてようやく華子は、不在者としてではなく、実在の存在として幸一郎を見つめるのだ。