ジオラマボーイ・パノラマガール | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

一方、瀬田なつきの新作「ジオラマボーイ・パノラマガール」はどうか。

30年ぶりのウォン・カーウァイは素晴らしくカッコよく新しかったが、こちらは恐ろしく古く退屈だった。

 

岡崎京子の原作はウォン・カーウァイのデビューより前、バブル真っ只中に発表されており、だからなのか。

 

それもある。

 

パーティーやタクシーや「お金が目的で風俗してるわけじゃないの私」的女子大生やパン屋襲撃やシティーホテルで朝までブギーバックみたいな世界観がすごいバブリーである。今の若い子もこんな感じなの?

 

よくわからないので、それはさておいて、なぜ古いと感じたのかの考察を進めるが、例えばこういうシーンがある。

ある少年が急な坂道を自転車で登る。カメラは坂道の上から彼をやや俯瞰気味に捉えるのだが、彼は必死でペダルを踏みなんとか坂道を登りきる。その後景では女子高生や男性サラリーマンが早々に自転車を諦め、自転車を押して歩き出している。

 

このシーンは、学校に遅刻しそうになり慌ただしく身支度を整える少女のシークエンスとカットバックされ、つまり二人はいかにも少女マンガの紋切り型を演じることとなる。しかし彼らは曲がり角でぶつかりもせず視線させ合わさず、ただすれ違うのだが、この定型のずらしがいかにも80年代ポストモダンで、これまたバブリーな感じがするのだが、それはともかく、このシーンのダサい感じ、嫌な感じは、女子高生や男性サラリーマンを配置し少年と対比させる、映画の通俗的な演出を何の疑問もなく踏襲しているからだ。

 

そんなことで少年の性格なり人となりなりなりなりを示せるわけではないことくらいは流石にわかっているだろうし、単なる微笑ましいエピソードを軽く映画の序盤に持ってきただけで、こうイチャモンをつけられても困るだけかもしれない。

 

しかし例えば、ゴキブリの群れを発見し、二人がダンスのように逃げ惑うシーン。私が見たTwitterでは、またぞろ「多幸感」なるキーワードでこのシーンが評されていたのだが、この「多幸感」表現の陳腐さ。「多幸感」を示すために、ゴキブリや自転車を押して歩き出す女子高生や男性サラリーマンを用意する面倒臭さ。頑張ってます感。

「パルコ」が「ハルコ」だとか、もうこういうのよくないですか。

 

私のセンチメンタルな友人(コロナ禍でちょっと心配)は「ヒロインを、映画が終わるまでにどれだけ好きになれるか、どれだけチャーミングに見れるか。まるで田畑智子か河合美智子のように溌剌としてどんどんチャーミングに見えてくる。あのオザケンから渋谷のクラブ、ここの二人のライバル女子のシーン凄くいい、その後のタクシーまで、神がってる」とまで言うのだが、80年代あたりから延々と続く表現を何の疑問もなく、あるいはこれこそ映画原理とでもいうように踏襲しての「多幸感」演出に辟易とする。

面倒な説明を背景にはしゃぐ少女を捉えて「多幸感」だとか「瑞々しい」とか、年頃の娘を持つ私は、日本映画のロリ的感性にほとんど怒りさえ覚える。

 

10年ほど前、突如ジャック・ロジェが復活上映され、シネフィル連がこぞって褒めたことがあった。その時のキーワードも「多幸感」であったのだが、私は「映画が始まってからえんえんえんえん笑っている馬鹿娘どもにむかつき」、つまり可愛い女の子がふらふら歩いたりはしゃいでんのを撮ってるだけで「映画」になるわけねーじゃん。

森崎を観ろ、加藤泰を観ろ、彼らが描く若者たちがどんなに必死になって幸福になろうとしていたか。なんてのはもはや中年後期の繰り言か。

 

そもそも、この手の「多幸感」映画、「瑞々しく眩い映画」を私が単に苦手なだけかもしれない。

勝手にやってくれ、と思う。

お父さんお母さんがどれだけ心配してると思ってんの、と説教したくなる私に、この映画を観る資格はないのかもしれぬ。

でも、えらく退屈だったんだもの。30年ぶりのウォン・カーウァイの方が全然新しく、カッコよく、若かったんだもの。