やくざ観音・情女仁義 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

寺へと続く長い石段を、肥桶を担いだ僧侶、岡崎二郎が下りてくる。下からその異父妹である安田のぞみが上り、さらにその下から彼女を拉致しようと図るヤクザ連が上る。安田のぞみはヤクザから逃れようと僧侶に助けを求め石段を上り、僧侶は肥桶を担いだまま、後ずさるように石段を上りだす。

 

その光景を安藤庄平は正面からのフィックスショットで撮るのだが、言われなければ神代辰巳が監督したとは思えない、山口和彦や牧口雄二あたりの東映もののような本作にあって、この石段のフィックスショットは必然であるとも言える。

 

ふらふらとパンし続けるような、構図を決めない長回し、人物主体のカメラではなく、姫田真佐久の撮影チーフであった安藤庄平は、しっかりと構図を決め、その中に演者を配していくスタイルを採用する。

演者が配される空間も広がりのない制限されたものであって、千葉の海岸で役者が動き回ったり、雪山で転げ回ったりといった演出が見られることはない。

 

そもそも、神代は階段を好む作家ではなく、坂道を好む作家であった。

階段や坂道をその正面から撮影した時、階段は高低差を示しやすく、坂道はそうではない。登る、降りる、という芝居の意図を明確に表せるのも階段であって、坂道はむしろ、降りる速度、無重力的な円滑さを表す装置であり、高低差を示すことへの映画の無力を示す装置でもある。

 

階段は例えばヒッチコックのような、演者の自由を束縛する作家によりふさわしく、坂道は例えばルノワールのような、演者の自由を許容する映画にこそふさわしいと言えるのかもしれず、もちろん神代辰巳は後者の作家に属している。

 

だから神代の中では異質なこの作品にあって、坂道ではなく、階段が特権的な舞台として登場するのは当然の事態であるはずだが、実際はそうではないことに驚いた。

 

肥桶を担いだ岡崎二郎、和服の安田のぞみ、ヤクザたちがそれぞれにふさわしい速度で、階段を上り始める。岡崎は後ずさりしながら、安田はスピードをあげヤクザたちを振り返りながら、その動きがいかにも神代であったのだ。

 

階段という左右の動きを制限された空間、上下の運動しか許されない空間にあって、肥桶を担ぐ岡崎二郎はさらに不自由な動きを強いられる。動きを制限された中だからこそ演者自身の自由が垣間見える、とでもいった、いかにも神代的な逆説的な演出が施されているからだ。

そういえば「濡れた欲情」の高橋明は大きなスーツケースを抱えて、よろよろと駅の階段を上ってはいなかったか。

ここで前言を撤回する。神代世界にあって、男はその歩みを邪魔され停滞し、女だけが坂道を疾走するのだ。

 

そこで思うのは、神代と鈴木清順との親和性である。

私が神代を初めて観たのは、映画ではなくテレビドラマで、多岐川恭の傑作「落ちる」をドラマ化した「傑作推理劇場・艶やかな罠」だったのだが、ここでのリアルを無視した展開や、不意に挿入されるサイレント映画の引用、何より、人物を少し離れたところから見つめた空虚に人工的な空間は、今思えば不思議と清順を連想させた。

鈴木清順は、佇む松田優作の周りに円を描き「この中で演じろ」と指示したと言う。

神代である。

 

確かに、本作は神代作品では異質な作ではあるのだが、神代としてはロマンポルノで5本目、前年にはこれもまた異色作と言える「女地獄・森は濡れた」を撮っており、「地獄」で再び出会うこととなる田中陽三をシナリオに据える、あがた森魚を起用するなど、決して会社からの宛てがい扶持の企画ではなく、自分の能力を多角的に図ろうと、畑ちがいの題材で自分の演出がいかに機能するのかを試す、野心的な作品であったのかもしれない。

 

ちなみに編集は岡安肇という人で、フィルモグラフィを調べたら、神代とは本作が最初で最後、今村昌平の後期作品の多くを手がけつつ、あとは膨大な数のアニメを手がけている。なんか不思議なキャリアであった。