15時17分、パリ行き | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

演技経験ゼロの本人に自分自身を演じさせる、というイーストウッドの新作。

 

そもそもイーストウッド映画には「巨大な銃をぶっ放す」とか「45000発の銃弾」とか「7丁の連発銃」とか、メリル・ストリープとの共演でベストセラー映画化とか、じじい俳優が宇宙へ行く、とか、少年ジャンプ的な企画性が常にあった。話題性と、話題を呼ぶ絵の導入こそがイーストウッド映画であった。最近はそれが「実話」というわけ、なのかもしれない。

 

また、町山智浩によるインタビューで「私はただ座って、君たちがしたことを演じてくれと言って、それを撮るだけだった」とイーストウッドは述べており、「ラクしたい」ってのが一番の理由なのかもしれない。

しかし、素人に演出するってのは絶対に楽じゃない。ベテラン俳優にああだこうだ言われても、カメラの前に立たせて一番楽なのはベテランさんだし、素人は手に負えぬ。

しかし、英語がわからない私には出演者の演技になんの引っ掛かりもなかったのだが、町山智浩によれば「セリフが棒読み」らしい。で、アメリカではえらく評判が悪いらしい。

 

もしかしたら出演料の問題だったかもしれないし、あるいはラストでニュースフィルムを違和感なく使うための方法だったかもしれない。それだけかい、と私はラストの方で結構ずっこけたのではあるが。

 

少なくとも「映画の虚構性」だの「実験」だのブレッソンだの、なんて高尚な話では絶対になく、もっとうまく映画を撮る方法はないか、と言う問いかけのような気がするのだがどうか。

 

 

ともかく、イーストウッドが意図していたのかどうかはわからぬが、あの素晴らしい観光旅行は素人にしか生み出せぬ味ではないか。

例えば、ゴンドラでナンパした女の子(この映画の女優陣がやけに美人なのが一番ブレッソン的)とジェラート屋に行くシーン。三人がジェラートを頼むまでをカメラはカウンターの中と外から、とりあえず全部撮っとけと。

トム・スターンがカメラを回したとは思えぬほど、ラフな絵。三人が頼むジェラートのアップをいちいち挿入するんで、ほとんど「ちい散歩」かと。そりゃかの塾長も怒る。

 

ところがこれが素晴らしい。いわば「0時間」に向けての妙なサスペンスを醸しつつ、素晴らしくワクワクし、またこれをイタリアとハリウッドの大スターであり、大監督が撮っていることの奇妙さと奇跡を感じる。

 

この映画は「ある崇高な運命の存在」を描くわけだが、テーマが単純であるからこそ、素人俳優の直線的、中心化された芝居、シーンごとにシナリオに描かれていることしか演じない、撮らないという方法が生きたのかもしれない。

 

例えば、どこかのバーで素人出演者2人が、いかにもベテラン俳優然とした親父(Vernon Dobtcheffって人。よく知らぬ)と話をするシーン。

ベテラン親父は「アムステルダム、最高ー!」とのみ言い続け(多分アドリブ)、素人二人は演技もできぬまま、それに対処するのだが、ベテラン親父は彼らの運命を導く者であり、その芝居が持つ虚構性というか、歴然とした格の違いに驚き、このシーンを目の当たりにしていることが新鮮であった。

何より、ラフに、シンプルに撮りながら、このシーンで物語がしっかりと動く。それを目撃したこと。目撃させること。それは映画のプロが素人を起用し画策した、あるいは無意識の実験の成功である。

 

 

イーストウッドはドン・シーゲルに「いかに映画を効率よく撮るか」を学んだのだと言う。

ドンは「え?それだけ?」と言ったらしいが、映画撮影の効率性という極めて物理的な作業手順を学んだ、と。身も蓋もない。

しかしその答えの一つがここにある。自分が体験したことをカメラの前で再現させる、そしてそれを撮るだけ。楽っす。

 

黒澤明は「トラ・トラ・トラ」で素人を多数起用した。理由は「パッと見」でしかない。主役の山本五十六に似てる、それだけの理由で黒澤は素人を起用し大失敗に終わったわけだが、黒澤が素人の芝居を許容していれば、多分、黒澤版「トラ・トラ・トラ」は完成しただろう。

しかも今回は本人だ。棒読みや不自然な芝居を気にしなければ、撮影も効率的だ。だって本人なんだもん。誰も文句はつけまい。

 

そしてそれが映画だ、とイーストウッドは言うのだ。「パッと見」の何が悪い。「ま、いっか」で素人の芝居を気にかけぬこと。過激である。エド・ウッドみたいではある。

しかし多分、マキノもそう言う、成瀬もそう言う。映画を撮るってそういうことなんじゃん、と。