ダウンサイズ | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

映画はまず「ダウンサイズ」の発明から、その発表、商業的な広がりを丹念に描く。

これが「発明もの」に属するSFであること、そのセンスオブワンダーを満喫させる楽しさ。

そしてようやく主役の夫婦が登場し、経済的な理由から「ダウンサイズ」しようと決意する。

 

このシーンが素晴らしい。

夜、手狭になったアパートの一室に二人が帰ってくる。そのシルエット。夫が冷蔵庫を開きミルクを手に取る。冷蔵庫の灯りが彼をほのかに浮かび上がらせると、その背後で妻が部屋の電灯を点ける。夫は留守電が入っていることに気づき、そのテープを再生すると、住宅ローンが断られたことを告げるメッセージが流れる。

 

このそう長くない1シーン1カットで夫は「ダウンサイズ」を決意するのだが、冷蔵庫と部屋全体の照明が見事だし、夫婦の位置関係がその後の展開を暗示させる。何より、アップに頼らないロングショットの選択が素晴らしい。

 

映画はその後、夫の視点から、ダウンサイズまでの段取り、ダウンサイズが流通した社会の様子を描くのだが、これもまた序盤同様にいかにもSFの楽しさを感じさせてくれる。

 

ダウンサイズ社会は、金銭的な余裕のある層と、そうでない層に二極化されており、もちろんそれは今のアメリカ社会のまさにミニチュアで、映画はそのような社会的な視点に徐々に移行していく。この一見、美しき社会を支える底辺の人々、掃除夫たちがぞろぞろと豪華マンションに入ってくるショットが素晴らしい。

 

アレクサンダー・ペインの確かな技がそこかしこに光る、これは好きな映画でありました。