ベルジャーエフ著作集4「創造の意味」より(7)-1
(※テキストは、ベルジャーエフ 創造の意味 弁人論の試み 青山太郎訳 行路社発行による。)
第2章 人間:ミクロコスモスとマクロコスモス
テキスト(p.62~p.63)世界の中心としての人間(人間の特権的意義)
人間についての謎を解くことは、同時に実在の謎を解くことでもある、という考えに哲学者たちは絶えず立ち戻ってきた。自分自身を知れ、これにより人は世界を知るであろう、と。
人間の深みへの沈潜を欠いた外的な世界認識の試みは、すべて事物の皮相な知識をもたらしたにすぎない。人間を離れて外へおもむく限り、事物の意味に達することは決してできない。何故なら解明できる意味は、人間そのものの内に隠れているからである。
世界を理解しようとする哲学的な源泉(わたしは、世界を理解しようとする営みを「哲学」と定義している)は、わたしたち人間の「心とからだ」の中にある。それを離れたいかなる世界理解も、わたしたちに〈生〉への「意味と価値」を開示してはくれないであろう。だからこそキリスト論的人間学においては、「神さえ人間にならなければならなかった」のである。アンゲルス・シレジウスがいみじくも言ったように、「もしわたしがいなくなれば、神もまた死ぬに違いない」。これこそ、「絶対的人間論」への扉である。
〈人間〉が、世界の奥義と意味を理解するための、唯一無二の源泉である。
それゆえ、ベルジャーエフ が言うように、「人間の深みへの沈潜を欠いた」いかなる世界認識も、外的であり、皮相な知識だということになる。ここに、文献の研究や学的研究だけでは、事物の意味に決して達することができないゆえんがある。
それでは、「人間の深みへの沈潜」とは何か。それはどういうことを言っているのであろうか? それは、何度か小林秀雄の言い方で取り上げてきた、「矛盾の中でじっと座って円熟すること」としてわたしは捉えてきたのである。この「矛盾」は、「世界体験」の中での矛盾である。