病気とは…自分が何者であるかを思い出すための課題 | 私のおべんきょうノート(ma-windのブログ)

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何でも自分で調べて、自分で考えよう。
本でもブログ記事でも、丁寧に読み込むことで新たに見えてくることがある。そういうものを少しずつメモしていこう。
分野は多岐にわたります。

 そういうわけで、パーキンソン病を調べているのだけれど、お医者さんの書く本には、みな、「不治の病」と書かれている。国の指定難病にもなっているし…。

 お医者さんは、病院に来て、言われるがままに薬を飲む患者さんしか知らないので、それはしかたないことだと思う。薬を飲まずに違うアプローチをした人がどうなるか…は知らないし、おそらく研究対象にならないのだろう。

 普段使わない筋肉を使う、独特なエクササイズで脳に刺激を与えるアプローチもあるらしい。筋肉と脳を結ぶ神経、特にあまり使われてこなかった神経を活性化させることで病状を改善させている人もいるという。これはとても理にかなっていると思う。

 

 で、本題…。そういえば、「光の手」の著者、ヒーラーのバーバラ・アン・ブレナンさんはどうやって病気を治してたんだろう…と再び取り出してみた。

 

   

 

 この下巻の冒頭に、個々人にとっての病気の意味が記されていた。

 

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 ヒーラーの視点から見ると、病気はバランスが崩れた結果である。なぜバランスが崩れるかと言うと、自分が何者であるかを忘れるからだ。自分の正体を忘れることで、不健康なライフスタイルにつながる思考や行動が生み出され、最終的に病気になるのだ。病気そのものは、自分が何者であるのかを忘れてしまったためにバランスを崩したことを知らせるシグナルである。それは、あなたがどのようにバランスを崩しているのかを教えてくれるだけでなく、本当の自分や健康を取り戻すためのステップを教えてくれる直接的なメッセージなのだ。この情報は、それを活用する方法を知っているなら、きわめて具体的なものだ。

 病気はこのように、自分が何者であるのかを思い出すのを助けるために、自分自身に課せられた問題として理解できる。すぐにあなたは、そうした発言に対して、あらゆる種類の例外を思い浮かべるだろう。しかし、それらのほとんどは、今生の人生や肉体的な命しか含まない現実の認識に限られたものである。私の視野は、もっと超越的なものだ。上述の発言は、あなたがすでに自分自身を時間と空間の物理的次元を超えた存在として受け入れている場合にのみ、健全な方法であますところなく理解できる。また、自分を全体の一部として、ひいては全体として含める場合にのみ、愛がこもったものとして感じられる。それらは、個性化と全体性が対立するものではないという考えに基づいている。つまり、先験的に、全体は個々の部分から成っており、個々の部分は、全体の一部であるだけではなく、ホログラムのように、実際には全体であるということだ。

 

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 病気は自分が何者であるか…を思い出すために自分に課せられた課題であると…。え…!?自分は自分なんじゃないの?それ以外に何かある?普通はそう思う。

 

 はせくらみゆきさんは、自分とは肉体でも心でもなく、その奥にある「いのち」(魂と言言ってもよい)であると書いている。はせくらみゆき著「こうすれば、夢はあっさりかないます!」より…

 

   

 

 

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 私は、人というのは、肉体でも、感情でも、思考でもないと思っています。人というのは、その奥にある「いのち」(魂といってもいいです)と思っているのです。

 いのちが、その人の真の部分で、からだ(肉体)と心(感情や思考)は、あとからくっついたものにすぎません。

 

 中略

 

ふだんの生活で目立つのは、このからだと心ですが、でも本当の私というのは、その奥にある「いのち」だと思っています。

 

 いのちの世界というのは、無限の海みたいなところですべてがつながっています。限界も境界もない、至極平穏な世界です。 

 でも、その世界だけでは退屈なんですね。そこで「私」という意識が生まれました。意識だけでは何の行動もとれないので肉体をもちました。いろいろ考える思考ももちました。

 このようにして、大きな無限なるいのちのなかの「私」といういのちが、肉体をもち、感情をもち、思考をもったのです。

 そして、いのちは太陽みたいなもので、本来はだれのいのちもピカーンと輝いています。自分というのはいのちなのです。太陽のような輝きが、だれの内にもあるのです。

 ふだんはこのいのちが、心とからだと出来事を観察しています。ふだんの生活で目立つのは心とからだですが、本当はいのちが主役で、心とからだは脇役なのです。

 

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  ヨーガ行者の成瀬雅春氏はヨーガは自分を見つめるもの、自分を観察するもの…ということを彼の著書の中で繰り返し述べておられる。その意味が少しわかった気がした。ヨーガは、はせくらさん言うところの「いのち」、「魂」が自分を観察する…ということのエクササイズなのではないか…と気づいた。

 はからずも、過去記事外の世界に囚われずに自分の内側を見つめる修行 の中に自分を観察していたことをメモしていた。こんなふうに観察していたのが私の「いのち」なのかな…。上記記事より再掲。

 

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以前にも書いたことがあるけれど、自分を観察するという習慣を身に着けると、普段から自分のことをちょっと客観的に見ることができるようになる気がする(あくまで気がするだけだけど…)。自分のちょっとした心の動きを、

「今のは、ズルだな」

「どうしてこういう思考に囚われるのかな」

とか、自分を見ることができるようになる。その結果、

「他人のこと、四の五の言ってないで、自分のことちゃんとしよ」

とか思えるわけで、それが実はヨーガをあらためて真面目にやり始めた効果かもしれないな…。そうなると、自分の意識の中に拡がる宇宙も変わって来るのではないか…と期待している。

 

---------------- ここまで

 

 この「いのち」を「神」と表現しているのが、ヨグマタ相川圭子さん。彼女は自分の中にいる神を信じなさいとおっしゃっている。相川圭子著「ヒマラヤ大聖者が導く年齢にとらわれない生き方」より抜粋。

 

   

 

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 多くの人が、人間は心と体でできていると考えています。さらに、心や体が自分だと思い込み、心の言いなりになっている人がほとんどです。その奥に働く、神秘の存在である神については考えていません。科学者も神を信じる人はわずかです。しかしヒマラヤ秘教では、心身の中にそれらを生かしている未知の力が存在すると捉えています。実際に探求し、本当の自分、魂を発見したのです。

 

 ヒマラヤ秘教は、あなたの心を変容させて楽にする根本療法です。その教えではまず、よい行為を実践していきます。もっとも大切なことは、源、つまり神の存在を信じることです。心の奥に私達を生かしめている存在、神があります。もし「神」という言葉に違和感を抱くのなら、「自然」という言葉に置き換えるとどうでしょうか。人は自然から生まれ、そこには源があるのです。

 

---------- ここまで

 

 はせくらさんは「いのち」の世界は無限の海みたいにすべてがつながっていると言う。バーバラ・アン・ブレナンさんは「自分を全体の一部として、ひいては全体として含める場合にのみ、愛がこもったものとして感じられる」と書く。いのちの無限の海を、自分が含まれる全体というものを相川圭子さんは「神」と書く。

 

 そういった自分の本質を思い出した時、自分の生活や思考を改め、健康を取り戻せるのかな。冒頭の神経を活性化させるエクササイズなんてものを、ヨーガのように自分を観察しながらやったら結構効果があるかもしれないな…。何せ、神経は「神」の「経路」ですしね。