目に見えない世界の話(4) ヒマラヤ聖者の存在意義 | 私のおべんきょうノート(ma-windのブログ)

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何でも自分で調べて、自分で考えよう。
本でもブログ記事でも、丁寧に読み込むことで新たに見えてくることがある。そういうものを少しずつメモしていこう。
分野は多岐にわたります。

 昨日、髪を切りに行って美容師さんとワクチンの話になった。「え?ワクチン後遺症?そんなのあるんですか?」と言っていた。「そういえば、最近、癌が見つかったって人多い。うん、帯状疱疹も多い。ご家族亡くなったって人も多いわぁ。やっぱりワクチンだったのかぁ」と、すごく納得していた。

 かくいう私は、最近ワクチンの追究はできないでいる。それは接種してしまった人がやはりある程度存在する現在、その解毒方法など確実なものが無い以上、これ以上恐怖を煽るようなことは、とりあえず書かないことにしよう…と思ったこと。そして、ここで一足飛びに飛んでしまったわけだけど…、奇跡を起こす人がいる以上、その秘密を知りたいと、最近はヨーガの成瀬雅春氏の著書を読んでいる。

 

 さて、先の記事 目に見えない世界の話(3) ヨ-ガ行者の話  瞑想の力 に私は「そんな数えるほどのヨーガ行者が瞑想したところで、世の中は変わらないよって思ってしまうかもしれない」って書いてしまったんだけど、この本の続きを読んでいたら、その答えがあった。

 

     

 

 

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 意識レベルの高いヒマラヤ聖者が存在することが、人類にとってどういう意義があるのでしょう。そのことをピラミッドで譬えてみます。

 クフ王のピラミッドに使われている石の数は、230万個とも300万個ともいわれています。その頂点にある、たった1つの石を存在させるためには、その下に229万9999個の石が必要です。意識レベルの高いヒマラヤ聖者が一人存在することで、その下では、230万人もの人が少しでも精神性を高めようとし出すのです。

 それは、仏陀やキリストという人間が存在したことで、その当時から現代まで、数えきれないほどの人たちが、少しでも霊性を高めようとか、徳を積もうという意識になることと同じです。

 仏教やキリスト教という宗教団体を作らない分、ヒマラヤ聖者のほうが存在意義が高いのです。それは「個人の精神性を高める」ということのみに意識を向けるからです。宗教団体になると、それ以外の雑多なことに意識を取られてしまう可能性があるのです。

 たとえば、お経や讃美歌などを覚えるとか、その団体の教義や規律を守ることとか、信者を勧誘すること、団体内での地位を高めることなど、本来必要なこと以外に意識が向けられてしまうのです。

 

 ヒマラヤ聖者や私の実践しているヨーガで説いているのは、そういったことではなく自分の霊性を高めるために、自分自身を見つめ、自分を知る努力をすることなのです。そのことが、この世に生を受けた人間にとって、一番必要なことです。今の状態から、ほんの少しでも精神性を高めることが、ヒマラヤ聖者に一歩近づくことであり、宗教団体の規律を守ることよりはるかに大切なのです。

 そういう意識を持った人が一人でも増えることが、ヒマラヤ聖者の存在意義であり、私がヨーガを実践し、空中浮揚やルンゴム(空中歩行)などを体得することの意味合いでもあるのです。

 

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 それは、つまり…理想郷シャンバラにつながる話だ。そういう意識を持った人が増えることで、理想郷シャンバラに近づくという…。ふーん、もう一度ヨーガをまじめにやってみようかな…。そして、瞑想もやってみようかな…と思い始めた。でも、やり方を間違えると違う方向に行くという瞑想。この辺りはちゃんと勉強しないとだめだなー。

 

 実はかくいう私、ヨガは30年以上も前からやっている。でも、ヨガをやろうと思ったのは「よし、痩せよう!」という目的があったからで、結局5kg痩せたところで、「やったぁ目的達成!」となり、それ以上の探求はしなかった。

 それ以来、まあ、腰が痛くなればヨガをやり体を整え、風邪をひきかければヨガをやって体をほぐした。ちょっと太ったー…って時も、ヨガをやって、ここ30年ほど体重はあんまり変わっていない。それだけでも、ヨガは健康法として、美容法として効果があるなぁ…と思っていた。…。でも、私にとってはそれ以上のものではなかった。

 

 でも、今、嘘がまかり通り、素知らぬ顔した暴力が蔓延り、こんなむちゃくちゃな時代になってきて、何をすべきか自分でもよくわからんなぁ…と思った時に、自分個人の精神性を高める…というのは一つの道なのかもしれないなぁと漠然と思う。同著ではヨーガをやる意義がこんなふうに語られている。

 

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 私の空中浮揚も、そうやってできるようになったものです。それ以上でもそれ以下でもありません。ときどき、「私も空中浮揚ができるようになりたい」と私の元を訪ねてくる人がいます。それは繊細な感性を磨けば、可能なことです。だからエミール師が「奇跡を起こすことは簡単です」と表現したのです。

 そこに、大きな秘密もなければ、魔法のようなこともないのです。誰でも手に入れられることなのです。しかし、そう言われても、納得しないから奇跡を起こせないのです。

 エミール師が「一緒に川を渡ろう」と言ったときに、素直に従えば水上歩行はできるのです。「そんなことは私にはできない」という確固たる信念が邪魔をしているだけです。「人間が宙に浮くなんてありえない」というのと同じです。そう思っている人には、絶対に奇跡は起こせません。あらゆることを「白紙の状態」で受け入れられれば、どんな奇跡も起こせるし、起きても驚かないのです。

 

 その「白紙の状態」になる方法で、私が推奨するとしたらヨーガです。ハタ・ヨーガによって肉体を操作することで、細かな感性が身につきます。それと同時に身体的な健康も得られるというおまけも手に入れられます。

 1年経てば、1歳年を取るという常識に縛られているから、確実に死が近づくのです。

 エミール師のように「今」を生きている人には「老い」はありません。

 それは夢物語でも絵空事でもなく、確かな「現実」なのです。

 そのことは、ヨーガ行者なら誰でも知っています。

 ヨーガを実践していると、いろいろな執着から解放されるようになります。

 

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 ヨーガもただポーズを行うだけではなく、その動きに伴う自分の変化を事細かに観察をするものだそう。例えば、首を一周ぐるっと回す時に自分の体にどういう変化を見出すか。最初は10も変化を見つけられないかもしれない。でも、感性が磨かれるにつれ、100も200も見つけられるようになるのだそう。それは知らなかった…。ただ、呼吸に合わせてポーズをとるだけかと思っていた。もちろん、ここが突っ張って痛いとか、筋肉が持たない…とか、感じることはある。ヨガは自分の体と話をすることだなと私も思っていた。でも、それだけではなく、その感性をもっともっと磨くものなのだ。

 

 こういうことは、実践が伴わないと言葉に重みが無いなぁ…と書きながら思う。そういうわけで、再び真面目にヨーガに取り組んでみようと思っている今日この頃でした。