鬼怒川温泉2泊3日を一緒に過ごしてもらった
いつも塾待ちしてる喫茶店の新聞で
何度か読ませてもらったのがキッカケ
鬼怒川の翌日も持参して読み進めた
私はもともと好きだから最初から興味深かったけど
この「多和田節」が
新聞小説としてどこまで受けるのかは
未知数だと思っていた
単行本を開いたら章立ても何もなくて
最初から最後まで文字がビッシリ! なのが
新聞小説らしくない けど
多和田さんらしいと思った(笑)
この「とりとめのなさ」 違うな
流れとうねりに巻き込まれる感じは
谷崎作品とも似てるし
大庭みな子もこんなようだった気がする
私は本を買わないのだけど
谷崎と大庭みな子の全集は持っているのだった
ぜんぜん開いてないけど
だからこういう「のみこまれていく」タイプは
もともと嫌いじゃないんだと思う
時間的な視点が 時々現在?に動くのが
おもしろかった
ひと周り下の私にとって
40年前を振り返った時 もしかしたら
こういう心持ちになるのかもしれないなと
30年前を振り返る今は
ちょっと違った心持ちで
その頃の自分や知人や関係性を見ている
40代と50代とでだいぶ変わったように
50代と60代とでも
感じ方は大きく変わるだろう
次に読む時は この
40年前を振り返る心持ち を
うまく言語化できたらいいなと思う
多和田さんは
知り合う人みんなから興味を持たれて
どんどん交友の範囲を拡げていく方で
しかも一度離れても 手紙やら何やらで
関係が復活することがとても多いけど
そうならない私に
欠けているものは一体なんなのだろう
今年も朗読会は開催されたようで
私はだいぶ前に二度参加しただけなんだけど
その頃に買ったまま積ん読状態だった単行本が何冊も出て来て
我ながら驚いた 反対に
一番気に入っていた単行本が出て来ない
探せば出て来るのはわかっているから
かくれんぼをしてるみたいでおかしいけど
今は読まなくていいよっていうことかな
全集も含めて 久しぶりに家にある書籍をまとめてたら
唯一活字になった作品論というか作品分析の冊子が見つかった
ちょっとだけ開いてみたら
自分がこんなに長い文章を書けていたことに心底驚いた
扱った作品は短いものだし
正直「長い」とは言えない長さ(短さ) とはいえ
まるで別人
刺繍や ミシンや 編み物や
鍵盤も
「今は出来ない」が多過ぎて
過去の私って
今のこの私ではないのかね









