ご先祖様と、真菜と莉子に、今年最後の挨拶に行ってきました。
お礼
ブログを見てくださっている方々。
いつもお世話になっている皆様。
今年も一年、誠にありがとうございました。ブログ、SNSでのコメントは返せていませんが、いつもお力をいただいています。
幸せ
今年は人様の前で講演をさせていただいたり、国会議員の方と対談させていただいたり、初めて尽くしの年でした。
また、交通事故のみならず、誹謗中傷問題についても活動をした年でした。
その中で、よくかけられる言葉があります。
- 交通事故や誹謗中傷は無くならない。それよりも、ご自身が幸せになることに注力してほしい。
- ご自身のために有意義に時間を使ってほしい。
- 新しい人生をやり直してほしい。
- いつまでも亡くなった人の事を考えないでほしい。
- 新しい人生やパートナーを探してほしい。
私だけでなく、多くの犯罪被害者がこういった声を受けます。
当然、「幸せになって欲しい」という優しさ故のお言葉なのは分かります。しかし、私はどうしても違和感を感じてしまいます。理由は2つあります。
1つ目の理由
「不幸な人間と決めつけられている」ように感じてしまうからです。
もちろん、愛する2人を亡くしたのは本当に苦しかったし、自ら命を断とうともしました。「自分はなんて不幸なんだろう」と思ったことも確かにあるし、今でもベッドから起き上がれないほど悲しい日もあります。一般的には、事故そのものは間違いなく「不幸なこと」ではあると思います。
しかし、幸せとはひとつだけなのでしょうか。
「妻と娘と生きる」という、私にとってベストの幸せは、確かに消えてしまいました。
それでも事故後、たくさんの人に出会い、支えられてきた。それによって、たくさんの人に感謝の思いを持てるようになった。私は本当に人に恵まれているんだな、と思えるようになり、その点で「自分は幸せだな」と日々思います。
二つ目の理由
「交通事故や誹謗中傷は無くならない。」=「だから何もしない方がいい。」という風には私は思えないということ。
数多の社会問題は、当事者が声をあげて改善されてきた数々の歴史があります。人類社会はそうやって進化成長してきたと思います。
「交通事故」「誹謗中傷」は間違いなくその中の社会問題の一つであり、日々被害者と加害者を生み出しています。
もし私が声をあげて一件でも防げたのであれば、妻と娘に「ふたりの命を無駄にしなかったよ」と言える。そう思い活動をしています。これは私の生きる力になっています。ある意味幸せを感じています。
上の2つの理由から、「不幸だ」と決めつけられ、「幸せになる為に○○すべきだ、○○して欲しい」と言われると、なんとも言えない違和感を感じます。(もちろん、悪意は無く、むしろ善意からなのは分かっています。)
多くの犯罪被害者は、望まない境遇に突如として置かれます。だからこそ、それぞれのタイミングで、それぞれの思う幸せを追い求めて良いのではないでしょうか。
幸せの定義は人それぞれで、決まったものなんて無いと思います。
最後に
今年も残すところあと少しとなりました。
皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。皆様のご多幸を願います。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
松永 拓也