「ねぇ、私やっぱり、ヒナタを連れて佐伯さんに会いに行って来ようと思うの。」
私はそう夫に切り出しました。
「何だよ、唐突に。でも佐伯さんはヒナタには、もう会わないって言ってたじゃないか。」
突然の私の言葉に、夫は困惑を隠せないようでした。
「それが佐伯さんの本心じゃないことぐらいわかるでしょ?
今頃はきっと気弱になってると思うの。
ヒナタだって佐伯さんに会いたいはずよ。だってヒナタにはわからないもの。
どうしてここに来たのか、もしかしたら捨てられたって思ってるかもしれない。」
「だからって…。
会ってくれるかな、佐伯さん。
返ってご迷惑にならなければいいけど。」
「大丈夫。佐伯さんは絶対ヒナタに会いたいはずよ。
ただ新しい生活を始めたヒナタを混乱させたくなかったんだと思うの。
そういう思いやりのある人だからこそ、最後にもう一度会わせてあげたいの。」
ヒナタの元の飼い主である佐伯さんは、今、この町のはずれにある病院の緩和ケア病棟に入院しています。
まだ30代の若さで末期の胃癌だそうです。
わかった時には手遅れで、余命3ヶ月と宣告されたとか。
佐伯さんはビーグルの女の子のヒナタと二人暮らしでした。
自分の余命を知り、彼はヒナタを託す里親を探し始めました。
そんな時、たまたま彼の友人が夫の職場の後輩というご縁から、私たち夫婦が里親になることになったのです。
初めてお会いした時、佐伯さんのヒナタへの愛情が痛いほど伝わってきて、涙を堪えるのに必死でした。
本当に辛いことですが、私たち夫婦は佐伯さんに代わり、ヒナタを大切に育てていくことを約束しました。
私は佐伯さんが入院後に、ヒナタを連れて面会に行くことを提案しましたが、彼はそれだけは頑なに応じませんでした。
それから1週間後、ヒナタは我が家にやってきました。
ヒナタは私たち夫婦にも、すぐに懐いてくれました。
それでも時々ふと寂しげにしている姿を見ることもあり、きっと佐伯さんのことを思っているんだろうと、胸が痛むときもありました。
私はヒナタと佐伯さんをもう一度会わせてあげたい、その思いが日増しに膨らんでいったのです。
そして、間も無くその日はやってきました。
私は事前に看護師さんにお願いをし、佐伯さんに散歩だと言って病院の駐車場に連れ出してもらうことにしたのです。
駐車場で待っていると、看護師さんに車椅子を押してもらい、すっかり痩せてしまった佐伯さんがやってきました。
佐伯さんは私を見ると、ちょっと驚いたような表情をみせました。
「どうしたんですか?ヒナタに何かありましたか?」
そう言う佐伯さんに私は、
「佐伯さん、お久しぶりです。
私、今日は佐伯さんに余計なお世話をしに来ましたよ。」
そう言って私は車のドアを開けました。
すると、中からヒナタが勢いよく飛び出し、真っ直ぐに佐伯さん目掛けて駆け出したのです。
そして、車椅子に乗った佐伯さんの膝の上にビョンと飛び乗り、佐伯さんの顔をペロペロと舐め始めました。尻尾をちぎれんばかりに振りながら。
「ヒナタ、わかった、わかった。もういいよ。」
佐伯さんはそう言いながらも本当に嬉しそうにしていました。
ヒナタの目もキラキラと輝いて、私はやっぱり2人を会わせてよかったと思いました。
佐伯さんは細くなった手でヒナタの背中を撫でながら言いました。
「こんなサプライズ、びっくりしたけど、本当に嬉しいです。
もう何日も笑っていませんでした。
ただただ死を待つだけの自分の身を呪うだけの毎日でした。
もうヒナタとも会わないと決めながら、日に日にヒナタに会いたい自分もいました。
ヒナタは今、どうしているだろう。そればかり考えるようになっていました。
まさか、もう一度ヒナタに会えるなんて夢のようです。
本当にありがとうございます。
最後にヒナタに会えて、もう思い残すことはありません。
ヒナタのこと、改めてよろしくお願いします。
僕はもう何も心配していません。
こんなにヒナタのことを思ってくれる人が一緒にいてくれるんですから。」
佐伯さんの顔には安堵の笑みがこぼれ、それはそれは優しい表情でした。
そして、私はただ頷くことしかできませんでした。
何か言葉にすれば、涙が溢れそうだったのです。
その日から2週間程経って、佐伯さんは天国に召されました。
生命力みなぎる桜の木に青々とした葉が茂る6月の始めのことです。
本当に若すぎる死でした…。
佐伯さん、あなたからお預かりしたヒナタは、私たちが必ず幸せにします。
いつの日かヒナタがあなたのもとに旅立つその日まで…。