桜の木の下で(桜3部作第1章) | 温もりのメッセージ

温もりのメッセージ

人と動物との心の繋がりを大切に、主に犬猫の絵を通して、
彼らの心の純粋さ、愛情の深さを伝えていきたい

 

僕がヒナタと出会ったのは、桜の花びらが散り始めた4月の下旬のことだった。
僕は犬はもともと好きでずっと飼いたいと思っていたものの、一人暮らしだったのでそれは叶わないことと諦めていた。
それが、たまたま通りかかったペットショップで半額という値札が貼られたケースに入れられた一匹のビーグルを見かけたのだ。
なんだかすごく気になって、店員さんに話を聞くと、すでに生後半年を過ぎて、いわゆる売れ残りのようだった。
その時の犬の目があまりにも悲しそうで、僕はその子を飼うことにした。
そして我が家に連れて帰ったその子にヒナタと名前を付けた。

僕は実家でも犬を飼っていたので、躾にもさほど困ることはなかった。
仕事で留守がちではあったけど、その分一緒にいる時は、ありったけの愛情を注いだ。
ヒナタは散歩が大好きだった。
特に春には散った桜の花びらの絨毯の上を桜の香りを嗅ぎながら歩くのが好きだった。
僕らは春になると決まって、いちばん大きな桜の木の下まで行き、僕はヒナタと桜の写真を撮るのが、恒例になっていた。
ヒナタは笑顔で決めポーズをとり、それがまたとても愛らしかった。
そんなヒナタとの暮らしは、もう5年になる。

そして今、僕らの暮らしに終わりが告げられようとしている。

それは僕が末期癌に侵されているからだ。
僕は当たり前のように先に逝くてあろうヒナタのことを最後まで責任を持ち看取る覚悟でいた。
なのに僕の方が先に逝かなくてはならないなんて。
余命宣告を受けた時のショックは、それはとても言葉には言い表せないほどだった。
まだ30代の僕にとっては青天の霹靂だった。
何も考えられない日々が続いた。
そんな時でもヒナタは、いつもと変わらず僕に甘え、そして寄り添ってくれた。
僕は我に返った。
そうだ、僕はこれから入院しなければならなくなる。
ヒナタのことを誰かに託さないとならない。
それから、僕のヒナタの里親探しが始まった。
友人、知人、いろいろ探したけれどなかなか見つからない。
入院も先延ばしにして、方々手をつくし、やっと見つかった。
友人の紹介で、うちからもそう遠くない場所に住む優しそうなご夫婦だ。
奥さんは専業主婦で、ヒナタももう長時間の留守番もしなくてよくなる。
僕は少しホッとした。
今まで留守番ばかりで、それだけは罪悪感を持っていたから。

ついに明日、ヒナタを里親さんに引き渡すという日になった。
僕はヒナタを連れてあの桜の木の下まで歩いた。
僕の体もそろそろキツくなっていたので、ゆっくりゆっくり歩き、普段の倍ぐらい時間がかかった。
僕はヒナタと桜の木の下に座った。
ヒナタは僕にぴったり寄り添った。
今はまだ桜は蕾すらつけていない。
まだ風が冷たいせいか、ヒナタは僕のコートの中に潜り込んできた。
ヒナタの体温が伝わり、僕の体も温まった。
僕はヒナタにこう話しかけた。

「ヒナタ、よく聞いて欲しいんだ。
パパね、ヒナタとはお別れしなきゃならなくなった。

パパじゃ、もうヒナタを幸せにはしてあげられなくなっちゃったんだよ。

ごめんな、ヒナタ。

だからパパの代わりにヒナタを幸せにしてくれる人を、一生懸命探したんだ。

ヒナタのこと大切にしてくれる人をね。それでね、ヒナタは明日、そのお家に引っ越すんだよ。
パパとは今日が最後。パパはヒナタのこと、絶対に忘れない。

ありがとな、今まで一緒にいてくれて。

パパを幸せにしてくれて。そして、こんなパパでごめん、許してくれ、ヒナタ…。」

ヒナタはじっと僕の話を聞いていた。
その表情は少し不安げにも見えた。

僕はもうヒナタとは会わないと決めていた。
実は里親さんご夫婦は、僕の事情を知って、病院までヒナタを連れて面会に来ると言ってくれた。
でも、僕はその申し出を断わった。
弱っていく僕の姿をヒナタには見せたくなかったし、何より新しい生活を始めたヒナタにとっては僕のことは早く忘れた方がいいと考えたからだ。

だけど今、ヒナタの表情を見ているうち、僕の決心は揺らぎはじめた。
それでもヒナタのためには、もう会わない方がいいんだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
ただ、生きてるうちには会えなくても、この世を去った後なら会えるかもしれない。

そう思って、僕は続けた。

「ヒナタ、もしパパに会いたくなったら、この桜の木を思い出して。

この桜の木の下でこうして一緒に過ごしたことを思い出して。

そしたら、パパはヒナタに会いに来るよ、必ず会いに来る…。」

僕はヒナタと約束した。

僕は先に逝ってしまうけど、僕の魂はいつだってヒナタのことを見守っていく。
それが僕の飼い主としての責任だと思うから。

ヒナタ、僕は最後にこの桜の木の下で約束したこと、絶対に忘れない。
僕はヒナタの幸せを願い続けるよ。