今日は私が愛してやまない声優の1人・

関智一さんの誕生日です!

 

おめでとうございます!

 

 

関智一さんは1972年9月8日生まれ、おとめ座のAB型。

生まれは東京都江東区門前仲町、出身は東京都江東区深川で、所属事務所はアトミックモンキー(名誉会長)となっております。

 

また、劇団ヘロヘロQカムパニーの座長及び日本芸術専門学校の特別講師も務めています。

 

 

生粋の下町っ子だった関さんは、当時の門前仲町辺りは『西部警察』や『太陽にほえろ!』など結構ロケが多くよく車が横転して爆発していたりなどしているの見ていた事あった一方、木場辺りは聖地巡礼という感覚はなく町並みも物心ついた頃には大分変わってしまったため見に行っていなかったそうです。

一人っ子で家に一人でいる時間が長く時間を潰すためテレビの影響を受けて沢田研二さんなどのタレントや歌手のものまねをしていたといいます。

ものまねを皆に見てもらいたいという目立ちたがり屋の面があり、近所の公園に友人を集めてものまねショーをした事もあった影響で芝居に興味を持ちます。

当時はテレビゲームもなかったため、基本外で遊ぶしかなく放課後は公園に集合して遊んでいたそうです。

小学4年生の時、一番最初に舞台を見に連れていってもらったという渡辺えり子座長の劇団3○○の舞台『ゲゲゲのげ』を見て感銘を受け、学校の演劇クラブに所属していました。

本人曰く役者を目指し始めたきっかけを覚えていませんが、人前で何かをやる事には興味があり江東区立数矢小学校時代では寸劇を作ったりしていたといいます。

 

当時は『仮面ライダー』のマスクを作って仮面ライダーショーのまねごとのような感じだったそうですが、主役のライダー役を演じておらず好きだから適していないものの主役を演じるというのが嫌だったといいます。

 

クラスで一番運動神経が良かった友人を班にスカウトしてライダー役を演じてくれたといい、怪人役が美味しいという事も分かっており「けっこう演技力が必要な役だなあ……」と漠然と考えながら怪人役を演じていたそうです。

 

小学4年生~5年生くらいに友人が「お前、頭デカいな!」と言われ人前に出ることが恥ずかしくなった一方、舞台や映画を見る機会が多く役者になりたいという思いを持っていたそうです。

声優を意識したきっかけも覚えておらず「誰かが声をやっているんだろうな」くらいだったといい、子供の頃はアニメブームで声優がフィーチャーされたことがあまりなかった事もあり漠然と意識していた感じだったといいます。

小学2年生~3年生の時、田中真弓さんと島津冴子さん、三ツ矢雄二さん出演のラジオ番組『アニメトピア』(文化放送)を夜中に聴いていたそうで、当時はその田中さんに会うと行動に出て同じく田中さんと島津さんが出演していたNHKの『小学4年生理科』でNHKに直接電話をかけて「スタジオ見学させてください!」と頼み、許可を得てスタジオに呼んでもらっていたそうです(2人がアフレコしていた現場を見学しサインをもらったといいます)。

小学3年生ぐらいの時は毎日のようにアニメやドラマを見ていた事から、次第に「僕もあの世界に入りたい」と思うようになり、中学生くらいまでは声が高く中学時代は劇団ひまわりに所属していた友人に「声優に向いているんじゃないか」と背中を押されます。

 

中学時代は学帽がある中学校だった事もあって頭を測っていたところ普通の大きさの帽子では入れず、中学3年生くらいまで頭の大きさの事を気にしていて、学校がつまらなく思い出したように芝居を始めようと思うようになります。

 

目立ちたがり屋だったため人前で演技をする事も平気でしたが自身は顔出しの芸能人にはなれないと考えた結果声優になろうと思い立ったそうです(この事は現在は違うとも語っており、小学校の卒業アルバムでは「声優になりたい」と書いてありました)。

小さい頃から親がラジカセで発育の記録を残しており、テープに声を録音するのが日常的な事だったそうで、親が共働きだった事から一人で留守番をしている間に声を録音して帰ってきた親に聞かせたりしていたそうです。

 

楽しさと好きだったTVアニメの声優が一致していったのかなと思ったといいます。

当時は学校に通って普通に生活しているのがつまらず「なんかつまんないな」と毎日思い「このまま大人になって、会社に通って、同じような仕事をずっとやる、学校の延長みたいな感じがずっと続くのかな……」と思っていたところいたたまれない気持ちになり「そうじゃないことをしたいなあ」と感じていたといいます。

また子役として活動していた同級生がいたそうで、撮影を理由に学校を休んでおり「羨ましい」と思っていたからかもしれないといいます。

親は商売をしていたため「フレキシブルな感じで働いていたかな」と思っていますが、親戚には会社員もおり特殊な人物は家族にはいなかったそうでです(しかし周囲には恵まれていたのはあったといいます)。

中学生の時、新聞で声優養成所の広告を見つけるも募集要項が16歳以上で断念し、中学時代は陸上部の活動に打ち込みます。

 

演劇をやりたいという気持ちもあったため、部室をのぞきに行きますが部員のほぼ全員が女子だったそうで、当時は思春期だった事から恥ずかしく演劇部に入部できませんでした。


声優だけではなく特に永井豪が好きで漫画家になりたいとも考えていたといい、当時の漫画の本には漫画家の住所と電話番号が書いてあり、ダイナミックプロの電話番号を調べて「見学に行っていいですか?」と電話をかけていたそうです。

 

その時呼んでくれて、外出中だった永井先生が帰ってくるまでダイナミックプロの漫画家達に遊んでいたくれたそうで、あだち充先生の絵を「これ描いて~」と差し出したりチャンバラをしたり、永井先生が帰ってきたらサインをくれたといいます。

当時は自分で漫画を描いて樹木子を登場させていたそうですが樹木子の弱点が分からず故・水木しげる先生に聞こうと直接電話していたといいます。

近所に木工場があり、出入りして電ノコの使い方や木工の作業を教えてもらったり「こんなことしたいな!」と望んでいたところしてもらえたり見せてもらえる出来事が結構身近にあったといい、その繰り返しで「やりたいことは積極的にやれば、上手いこといくんだ」のように自然と考えるようになったんだといいます。

漫画家と声優の二つの夢を持っており、美術学校と普通高校を両方受験しますが(当時は美術学校の試験の当日に風邪を引き体調が悪いまま試験を受けていたといいます)、合格発表の順番は逆で「ここで決断しないと、進学先がなくなるかもしれない」という恐怖感まで生まれたといいます。

 

美術学校に通いたかったものの普通高校の方が先に合格し、高校時代に普通高校に進学します。

 

その時美術高校からも合格通知が来ており、美術学校に進学していたら「絵のほうに進んでいたかもしれませんね」「美術系の職業に就こうとしていたんじゃないか」と思い「声優にはなっていなかったかもしれないなあ……」と語っています。

高校に進学後、陸上部のレベルが高くなり全然通用せず一気につまらなくなってからは「俺、なんかやりたいことなかったかな……あ、そうだ、声優とか、お芝居をやりたいな」と高校1年の終わり頃に本格的に目指し始め、高校2年生の春から3年間勝田声優学院や俳協ボイスアクターズスタジオといった養成所にも通うようになります。

 

気持ちの切り替えは早く美術高校はダメだった事から絵は趣味で描いて退屈なところは「部活の代わりにお芝居でもやってみようかな」くらいの感じで「芝居にも興味あったなぁ」と思い出し、挑戦してみたというところだったといいます。

勝田声優学院時代は雑誌で掲載されていた同声優学院の広告を見つけて右も左もわからないまま飛び込んでいたといいます(当時は放課後に通っており、部活の延長のような感じだったといいます)。

 

「簡単に声優になれる」という思い込みがありましたが普通の芝居の勉強をする事になり、女子とイチャイチャするような芝居といった事が少しできず、講師にも見限られて落ち込み、行かなかったりしていたそうです。

その頃、講師をしていたディレクターから仕事を貰いましたが現場で少し粗相があり、アニメの2本録りの2本目の時は「邪魔になるから」と外に出ていたそうです。

 

外のロビーにあった雑誌を何気なくパラパラとめくっていたところ、帰りにディレクターに「おまえ、新人のくせに外でマンガ読みふけっていたらしいじゃないか」と叱られ、一応番組レギュラーのような事を言われていましたがそれ1日きりで「もう来なくていい」と言われたそうです。

 

その時は「やばい」とも思いましたがあまり落ち込まないタイプのため「名前が売れる前で良かった」「まあ、良い体験した」と「もう1回イチからがんばろう」という気になったそうです。

ドロップアウトしないで続けられた理由は友人に恵まれたのが大きかった事と臨時講師で後に恩師となる故・水鳥鐵夫さんとの出会いで気を持ち直し「もう少し続けてみようかな」と思ったといいます(水鳥さんを影響を受けた大先輩としても挙げており「あの人が居てくれなかったら、声優を辞めていた」と語っています)。

養成所時代は「うまいけれど、よい芝居じゃない」「中身がない」のような事を言われていたといい、ものまねが好きで小器用なところがあった事から、耳で聴いたものを再現するのは得意だったそうです。

 

以降そればかりになり、中身が感じられなかったんだと10年くらい悩んでいたそうです。

ある舞台の本番をしていた時、相手役の人物から夜に電話がかかって来て「私に向かって、ちゃんと芝居をしてほしい」と文句を言われ、「してるつもりだけど?」と返していたところ「全然、響いてこない」と言われました。

 

お互いに泣きながら辞める辞めないような話にもなり、自身は「ふがいなさだ」と思ったものの怒りが沸いてきた時、ふと冷静になって「あ、この気分は、今やってる役に近いかもしれない」と急に「分かった気がするから、またね」と言って電話を切ったそうです。

 

気持ちを忘れないように何度も思い返してはイライラしながら翌日の本番に臨んでいたそうです。

 

芝居の初めから終わりまで気持ちが流れている感覚を初めて感じられ、相手役にも「やればできるじゃん」のようなむかつく感じで褒められたその時、言われてきた「中身がない」という事が分かった気がして翌日、「同じようにできるか」と思っていたところ、再現をしようとしてもできませんでしたが、そういう事を繰り返していくうちに徐々に言われなくなりました。

『イエローハット』のラジオCMが初仕事となり、1991年に海外アニメ『レポーター・ブルース』の農夫役の吹き替えで声優デビュー。

 

1993年に『機動戦士Vガンダム』のトマーシュ・マサリク役で初レギュラーを射止め、1994年には『機動武闘伝Gガンダム』のドモン・カッシュ役で初主演を果たしました。

 

 

当初は水鳥さんが演出家として参加していた劇団あかぺら倶楽部に合流しようと公演の受付ではもぎりをし、車では小道具を借りに行くのを手伝いをしていた流れで入団しようとしてたといいます。

しかし劇団員がある程度の人数は所属しており、高木渉さんや三石琴乃さんといった先輩達が演劇をするために結成した劇団だった事もあって「自分が入ってもなかなかメインをやる順番が回ってこないじゃん! 」と気づいており「これじゃ、いつになるかわからないな」と思い断念し、友人と劇団「ヘロヘロQカムパニー」を結成して舞台活動を始めます(その時は「自分たちがやりたいときに、やりたいことをやれる環境の方がいいな」と思っていたといいます)。

当初は東京俳優生活協同組合に所属していましたが、2000年にアトミックモンキーの設立と同時に移籍しました。

2004年に『ふたりはプリキュア』の美墨なぎさ/キュアブラック(声:本名陽子)をサポートする妖精・光の園の選ばれし勇者ことメップル役に抜擢され、翌年の2005年には『ドラえもん』の故・肝付兼太さんに代わって骨川スネ夫役に抜擢されました(リニューアル前のドラえもん映画作品には2度脇役で出演した経験がありその後肝付さんと数回に渡り共演しました)。

2017年1月9日放送の『人気声優200人が本気で選んだ!声優総選挙!3時間SP』(テレビ朝日)では第5位に選ばれました。

 

また、声優や舞台俳優他にも歌手としても活動しており、1998年に自身がケン/飛鷹健役で出演したアニメ『ヴァイスクロイツ』から誕生したユニット「Weiß」(現在は無期限活動休止中)を結成し、2年後の2000年発売のアルバム『Naked Mind』でavex mode(現:avex trax)からソロデビューを果たしました。

現在は特に目立った活動はありませんが、「ヘロヘロQカムパニー」公演の主題歌・挿入歌の歌唱を数多く担当しています。