日光東往還を歩く | M3Variant : 高齢者の仲間入りしました

M3Variant : 高齢者の仲間入りしました

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLのほとんどはM3型(多顆粒型)ですが、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

横浜に住んでいた頃から今まで、関東の旧街道をいくつか歩いてきて、昨年10月には東京都の西部、八王子から日光方面へ向かい、栃木県佐野に至る千人同心街道を歩いた。
それでは今年は東京の東側から日光方面へ向かう街道を。と、単純な発想で、日光東往還を歩くことにした。前の記事に書いたとおり、京街道を歩き終えた後、関西から東に向かい、千葉県野田のビジホにチェックイン。

25.4.09(水)
この日は野田のビジホを出て、東武野田線(アーバンパークライン)に乗って柏へ。
柏からJR常磐線各停に1駅だけ乗り、南柏駅へ。

 

↑この日歩いたルートと写真など

印刷して持ち歩いた白黒地図はこちら

 

9:15 南柏駅からこの日の街道歩き開始。すぐに駅前の県道261号に出た。2011年10月29日、旧水戸街道を松戸駅から我孫子駅まで歩いた時のルートである。

合流した県道の向いに神社があり、立ち寄ったまではよかったが、引き返そうと振り向いた時、足元にあったコンクリートの基礎に気付かず、両脚を強打してしまった。
何てこった。開始早々の失敗。この先歩けるんだろうか。この日の予定ルート沿いは交通の便がいいから、歩けるところまで歩くことにした。

 

水戸街道松並木解説
残っている並木はわずか

 

9:28 水戸街道との追分に到着。ここから日光東往還である。すぐにJR常磐線を跨ぐ陸橋を越えた。

 

中国野菜栽培草創の地

 

9:48 中国野菜栽培草創の地と書かれた石碑が、農家の入口にあった。個人で建てたもの? 中国野菜というとチンゲンサイを連想するが、最初に栽培した中国野菜は何だったんだろう。


9:51 豊四季開拓百年記念碑と書かれた石碑があった。昭和48年と書かれていたから、開拓開始は1873年か。

 

一里塚跡

 

10:25 一里塚跡を通過した後、つくばエクスプレス流山おおたかの森駅を越えた。

 

現在の運河駅 西口

 

正午前、東武野田線の運河駅に立ち寄った。この駅には1979年の6月頃に来たことがある。私の父方の祖父の姉(つまり私の大伯母)がこのあたりに住んでいて、父といっしょに大伯母の家を訪問した。父は6年前に亡くなったし、大伯母も生きているはずはない。もう親戚付き合いもなく、どのあたりのどんな家だったかも覚えていない。

46年も前の運河駅駅舎や駅前なども、もちろん覚えていない。今では跨線橋の自由通路に改札のある橋上駅になっていた。ウィキペディアによると、現駅舎は2013年7月から段階的に使用開始されたとのこと。

運河駅前で昼食。歩き始めから 17,251歩、11.6km。昼食後、街道歩き再開。すぐに駅名の由来にもなっている利根川の運河に架かる橋を越えた。利根川と江戸川を結ぶ利根運河である。

 

 

利根運河

 

運河には鯉幟が架けられていた。仮設の橋もあり、運河へ下りてみた。

 

最初の旧宿場、山崎宿

 

13:04 最初の旧宿場、山崎宿に差しかかった。東武野田線の梅郷駅前付近である。13:10 旧山崎宿の先で旧流山街道(野田道)との追分を通過。次回、この流山街道・野田道を歩く計画で、3日後に歩いた。

 

日光東往還の解説

 

13:56 野田市役所の前の通りに、野馬土手と日光東往還の解説があった。

 

14:49 蕃昌新田で野田道と合流。そのすぐ先で日光東往還から離れて最寄駅七光台駅へ向かう道に入った。この日の日光東往還歩きはここまでである。
駅へ向かう途中、県立野田中央高校の校舎裏を通り、野球グランドのバックネット裏と、弓道部の部活場所の脇を通った。どちらも敷地境界のネット越しだったが、部活中の高校生から「何だあの爺じいは?」という感じの目で見られた。ああ恥ずかし。

15:13 七光台駅到着。昼食後は 10.9km,16,339歩。東武野田線(アーバンパークライン)に乗って愛宕駅へ。ビジホへ戻った。

歩き始めに南柏駅前で強打した両脚を見たら、左脛は擦り剝いた程度だったが、右脛には瘤と内出血の青あざができていた。やれやれ。入浴後、湿布薬を貼った。